2014年1月7日火曜日

身体的な得意不得意は文化的活動にも影響しますよ、という話







僕は絵を描くことに苦手意識を持っています。
とにかく、絵が下手です。恥ずかしすぎて人前ではほとんど絵を描きません。

字も下手です。手紙なんかも自筆を避け、なるべくキーボード入力にして、
署名だけは自分で書くようにしています。その方が断然読みやすいから。


僕はどうやら手先が不器用みたいです。
思い通りの線を書けた試しがありません。
自分では横にまっすぐ線を引こうと思っても右にあがります。
円は見事なまでにいびつに歪みます。
横書きで文字を書くと重力に逆らえないかのように右下がりになります。
試しに思いっきり右上がりに書いてみようと注意しても、右に下がります。


手先に関する神経伝達の精度が、かなり低いんだと思います。
思えば高校時代吹奏楽で打楽器をやっていたときも、
ルーディメンツと呼ばれる小太鼓の基本的で複雑な奏法もてんで身につきませんでした。
だからもっぱら大太鼓やシンバルとかの、もっと全身を使う系の楽器を扱っていましたもの。


腕や手先の精度の低さが、絵画や文字といった文化的アウトプットに影響を与えてます。
訓練すればどうにかなるのかもしれないけれど、たぶん訓練してもあまり改善されません。
それにはちゃんとした根拠があります。




僕の脳みそはどうやら映像についての認識機能の性能が悪いようなのです。


たとえば昔のある出来事を思い出すとき、どんな風に思い出されますか?
おぼろげでも鮮明でも、頭の中に映像が浮かぶという方がいらっしゃいますよね。

僕は、映像は全く浮かんできません。
その代わりに、文章や文字、音が脳裏に浮かび上がってくるのです。
自分の幼い時の記憶を、小説を読み返すように思い出します。


初めてきた店の内装を覚えておこうと思う時や、
レストランで出てきた料理が美味しくてその味を覚えておこうという時も、
壁の色やテーブルの配置、内装を文字に置き換えて覚えますし、
料理については材料や香りの要素からレシピをたどってそれを大まかに覚えます。

思い出を映像で再生したいときには、
記憶した文字情報を脳内で映像に置き換えていく作業が必要になるので、
僕にとっての映像記憶はほとんどすべてが、二次的な情報です。



だから、絵を描こうにも文字を書こうにも、
目の前に線が浮かんできて、それを手の動きでなぞるだけ〜、みたいなことは
生まれてからこのかた出来たことがありません。

いつも何が起こるか分からない状態のまま筆をすすめます。
でその上、手先の性能が劣るものだから、出力された結果は悲惨なものです。



まあそのかわり、文章を作り上げたり、音を掴んだりする能力は
不自由しないくらいにあるので、それが僕という個体の持つ性質なのだと納得しています。
たとえ僕がめちゃくちゃ絵が好きで絵描きになりたいと思っても、
誰もがぶっ飛ぶような絵は描けなかったことでしょう。
きっと。脳みその能力的に。



「そういわず、山野君も字なり絵なり練習したら上達するよ〜!」という声も聞こえそうですが、
おそらくそういう程度の話ではないと思うのです。
先天的なのか後天的なのか分かりませんが、僕の脳みそは映像認識や映像想像の分野では
普通以下のパフォーマンスしか出せないのです。



世の人々の得手不得手、というのはこういう、とても根源的な原因によって生まれているのかもしれませんね。



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