2014年1月30日木曜日

「可笑しみ」を見つけられない人がすぐ「つまんないらしいよ」とか言っちゃう哀しさ、の話






たとえば、テレビで映画のCMが流れてるとき何気なしに、
あるいはコミュニケーションのとっかかりとして
「これ観たいんだよね〜」って呟いたりすると、
「それつまんないらしいよ」とか出し抜けに言っちゃう人いますよね。

あれ、なんなんですかね。



そういう本人がもうすでに観ていて、自分の感想として
「あーこれね。私はあんまり面白くなかったな〜」って言うのはわかる。
でも、本人も観てなくて、友達の感想なのかネットでの情報なのか知らないけど
「つまんないらしいよ」って伝聞型で言えちゃうのって不思議な感覚です。
僕からするとちょっと違和感がある。

なにに違和感があるのか考えてみると。



予告編とかあらすじ記事とかいろんな判断要素があるのに、それらを自分で吟味せずに「他人の評価」を丸呑みしてつまんないものと納得してしまえる、判断の他人任せ感。

「私はあんまり興味をそそられないなー」とか「僕的には面白くなさそう」ならばまだ
「どうしてそう思うの?」っていう会話が続く余地があるけれど、
「つまんないらしいよ」に対して「どうして?」って聞いてもおおかた
「友達がそういってた」「ネットに書いてあった」という返答なので
そこでコミュニケーションが断絶されてしまう感

仮に筋がマズくても役者はいいかもしれないし、編集がダメでも構図はいいかもしれないし、登場人物に共感できなくても音楽はいいかもしれないのに、
そういうところを楽しもうとしないで一刀両断できてしまう視野の狭さ感。



今回は具体例としてたまたま映画をあげましたけど、
映画に限らず、世の中に起きていること全般に向けて言えることですよね。
なんというか「それは個人の嗜好の違いだから」っていうのとは違うと思う。
なぜならば「嗜好」は好きか嫌いかの“どうにもならない感性”の話であって、
面白いか否かは「事象を可笑しめるかどうか」の“能動的な知的好奇心(理性)”の話だから。



僕も、自分の「嗜好」としては嫌いなものってたくさんありますけど、
そのものの「可笑しみ」を挙げろといわれれば答えられますもの。
というか、「可笑しみ」のない出来事や物事がこの世にあるのでしょうか、果たして。




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