2014年2月21日金曜日

冷静な批判に必要なのは情報でいらないのは感情だ、という話






まずは淡々と4つの記事を貼ってみますね。

1、森喜朗元首相、浅田真央選手について「大事な時には必ず転ぶ」 
 http://p.tl/esuZ

2、森東京五輪組織委員会会長の失言と浅田真央の底力 http://p.tl/ho_A

3、森元総理の発言報道に激怒して発言全文を読むと、ありゃりゃ???http://p.tl/UTZH

4、森喜朗 元総理・東京五輪組織委員会会長の発言 書き起し荻上チキ・Session-22http://p.tl/yfC7





森喜朗さんの発言を巡るマスコミの煽りようとそれに対する国民の騒ぎようは、
もう毎度おなじみ慣れたもの、いつもの光景ってかんじです。

今回はどうも「真央ちゃん」への思い入れが 強い方が多かった分、
すごい勢いで森さんが叩かれてます。森さんの発言、じゃなくてね。
で、それの反作用としてマスコミも叩かれてます。
本当に叩かれるべきなのは、こういった情報にすぐさま飛びついて激高する
僕たちの存在の方だと僕自身は感じるんですけども。



で、当の森さんの発言があってからの経緯としては、1→2→3→4という順番で
僕は情報を見ました。

1の段階で反応して、2みたいな反論をぶちまけちゃうのって、
僕個人的にはしたくないなーと思ってます。
「マスコミは部分を取り上げてより煽動的な記事を作成する」ということは、
わかりきっていることですから。



意義のある批判は理性の上にのみ成り立つと知れ

僕が思うに、批判とは「より公平な視点を持って事象を吟味すること」に他なりません。
人の欠点を探す」とか「自分の感情を乱したものを糾弾する」とかは、
いちゃもんをつけているだけであって、批判とは呼べません。

冷静に思考した上で批判対象に非があった場合、その誤りを正すべく指摘することは必要ですが
あくまでも、間違っていることを大声で指摘する=批判、ではないことだけは
常に念頭に置いておかねばなりません。

まず、何かを批判しようと思った時には、2つのことに気をつけねばなりません。


・冷静な論理性をもった言葉でコントロールされた理性によって自分が喋れているか 
・そもそもその事象について十分な情報を持って理解をしているか


残念な批判がある場合だいたいは、どっちかが足りないか、どっちも足りないかです。
当然ですが。笑


今回の場合、「理性による言葉」を用いることができていた人はけっこういたと思われます。
けれど、圧倒的に「情報収集」が少ない人が多かった。
ここでいう「情報」とは、マスコミの報道内容ではなく、
森喜朗氏の発言の全容のことのみを指します。それ以外は余計な情報です。
真央ちゃんがどれだけ頑張ったかとか、自分がどれだけ感動したかとかは、
自分のなかでこの2日間の出来事を楽しむためには必要な要素ですけど、
公人の発言をパブリックスペース(SNSもブログもパブリックなのは当然のことですよね?)で批判するからには、まずは事実のみに目を向けてみるという手順を踏むことが必要です。

もう一度いいますけど「真央ちゃんがどれだけ頑張ったか」や「自分がどれだけ感動したか」は
まず脇に置かないといけないんですよ。これ、けっこう難しいですよ。

感情を以て論理的な批判は、絶対に成立しません。
とくに、文章について死ぬほど考えたことの無い非専門文筆家である一般人の僕らであれば尚更です。
プロの文筆家が感情を頼りに批評文を書いていたとしたら、
それは「意図的に」読者の感情を揺さぶりにかかっているということです。
そこでは論理性が二の次になっています。プロのテクニックとして取捨選択されているのです。
この「プロ」の存在は時に思想家であり、時に革命家であり、そして時にマスコミであります。
マスコミが、意図的に、論理性を排除して、読者の感情を揺さぶるために作成した文章に
まんまと踊らされてしまうと、そこから生まれる批判の多くには
感情的な糾弾が埋め込まれ、冷静な理性による言葉が生き残る余地がなくなってしまいます。




話題の公発言はすぐさま全文書きおこしされる時代


そろそろ僕たちが学習しなければいけないことがあります。

話題になった公での発言は、2日と経たずに全文書きおこしされてネットにアップされる時代になった

のです。


なぜみんな、それを待たずに、マスコミの加工を経た情報のみでいろいろ言い始めるんでしょうか。
で、事の全貌が世に出回ると「マスコミの情報操作は悪質だ」とかいって
マスコミ叩きがはじまるんでしょう?
よっぽど「悪いヤツ叩きごっこ」がみなさんお気に入りらしい。


テレビや新聞で、「ん?変だぞ」と心に引っかかった情報があったとしたら、
早急な判断をせずに、感情的な糾弾は押し込めて、全容がつまびらかになる瞬間を待ったらどうでしょうか。
予算委員会で政治家の不適切発言があったのなら、動画共有サイトにて
該当予算委員会の全部を視聴したらどうでしょうか。

なるべく全部の情報を自分の目で見、自分の耳で聞いて、その上で判断したらどうでしょうか。
少なくとも今回の森喜朗さんの発言の全貌は、一晩待てばこうして誰でも見られる状況になりました。(4の記事参照)


いやー、全文書きおこしって便利ですよね。
映像だと注視してないといけなくて集中力必要だけれど、
活字になっていると隙間時間に拾い読みしたりできますもの。
今回はTBSラジオ「萩上チキSession22」の告知ページにて全文書きおこしを読みました。
これ、評論家の萩上チキさん直々に書きおこされたんですかね?
その辺はちょっとわからないですけれども。
政治記者会見に特化した書きおこしサイトだと「OKOS」さんってとこも最近話題ですけど。

OKOS(オコス政治記者会見文字起こし書き起こし情報サイト http://p.tl/TTaP





自分の頭で考えることをしてみたら反射的に言葉がでてくるはずなんてない


事の全容を把握せずに、過去のイメージを優先して
「シンキロウ」とか言いながら鬼の首を取ったように批難するのも、
事の全容が出てきてから事象のねじ曲げを指摘して
「このマスゴミが」とかいっちゃうのも同じ穴の狢じゃないですか?
僕はそう思いますけどね。

「シンキロウ」とか「マスゴミ」とか、こういう言葉を使った批判って
もっとも論理性と冷静な理性から遠い存在だと思いませんか。
そういう言葉で人のサド感情を掻き立てるような記述を見かけた瞬間に
その主張の信憑性と説得力はゼロになるよなーと僕には感じられます。


健全な批判というのは必ず、批判対象に対するリスペクトがあるはずなのです。
尊敬という言葉が当てはまらない場合には、ある種の畏怖と言い換えてもいいと思いますが(ナチス問題とか)
「シンキロウ」「マスゴミ」と言いはじめた瞬間に、そこにはリスペクトが
微塵も無い事がわかっちゃいますよね。
尊敬のない批判に冷静な言葉を見出せることは少ないです。

「森さんはいままでのことを考えても尊敬できるような人物じゃない」とか言われるかも知れませんが、
僕はそういう事を言っているのではないのです。

森さんがどんな人物であろうが、マスコミがどんな体質であろうが、
そこに人が関わっている以上その人格に対しては敬意を払いましょうよ、という話。
対象に敬意を払わないで発された言葉に、尊厳なんてあったもんじゃないですよ。ほんと。


いったんあらゆる情報を自分で受け止めて、自分の頭で考えてみることが、考えるということです。
飛んできた情報に触発された自分の感情を瞬時に撃ちかえすのでは、考えたとはいいません。
「また失言がー」とか言いたくなったら、その言葉をまず飲み込んでみる事です。
反射的に生じた言葉が冷静な理性的言葉であることなんて少ないんですから。
もしもまず感情を飲み込んでみて、情報を自分のなかに取り込んでみて、
冷静に考えた末に導きだされた答えが、一番最初のものと同じだったとしたら、
その言葉にはさらなる説得力が付与されているはずです。よかったですね。






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