昨年中頃ぐらいから、テレビドラマを見るようになりました。
なぜかというと、色んな考え方はあれど、
テレビドラマは色んな形で時代をうつす鏡の役割をしているな、と思う出来事があったから。
で、今週から日本テレビ系で始まった「明日、ママがいない」をみて
なんと面白いものが始まったんだ!とワクワクしています。
明日、ママがいない
演出 猪股隆一
長沼誠
鈴木勇馬脚本 野島伸司(脚本監修)
松田沙也プロデューサー 福井雄太
難波利昭出演者 芦田愛菜
鈴木梨央
ところが本作、第一回目放送後すぐさま抗議があったそうです。
日刊ゲンダイ猛抗議で中止必至 日テレ「明日、ママがいない」のエグさhttp://p.tl/VTSt
「明日、ママがいない」に放送中止を要請 芸能ニュース : nikkansports.comhttp://p.tl/0N1H
ちょっと煽って書いてありますけど、抗議の要点が
- 主人公が「ポスト」とあだ名されていることは精神的虐待、人権侵害だ
- 現実とかけ離れたシーンが多すぎ、誤解や偏見、差別をあたえる
ということならば、
「(そうしたい気持ちはわかるけど)抗議は的外れなんじゃないかな」と僕は思います。
「芦田愛菜の演技が好きじゃない」とか「野島作品が好きじゃない」とか
「そもそもテレビ自体みないしドラマに興味がない」という方もちょっとお付き合いください。
◆作品を最後までちゃーんとみればよくわかることがあった
実は僕も当初、このドラマは見るつもりではなかったのです。
たまたまテレビをつけたら始まって10分ぐらいのシーンで、
以前はあまり好きでなかった芦田愛菜さんの、その演技の変化に驚いて
とうとう最後までみてしまったのです。
彼女の演技に驚きすぎたので、「子役の愛菜ちゃん」でなく、
「女優の芦田愛菜さん」と呼び方が変わるぐらいに影響を受けました。
ドラマの要点はこんなかんじ。
- さまざまな理由で親(母親)に捨てられた子供を預かり里親をさがす施設が舞台
- 芦田愛菜演じる主人公は周りから「ポスト」と呼ばれている(赤ちゃんポストに捨てられていたから)
- 施設での教えは「お前らははじめ同情されこそすれ、一度ミスをすると途端に見捨てられる。だから全身全霊で世間に気に入られる術を身につけろ。」
抗議の対象になったのはおそらく、この要点の2番目と3番目ですね。
まず、2番目の「ポスト」という呼び名についての抗議の問題点をば。
「ポスト」というあだ名は周りから付けられたものではないと、
第一話の終盤でポスト自身の口から明かされるのです。
ポストいわく
「私は親から捨てられたけれど、そうじゃない。
私が親を捨てるんだ。そのために、親から貰った名前を捨てた。」と。
なので、彼女自身が自らの境遇を受け止めて生きるために
「ポスト」という名を手に入れることは非常に重要なプロセスだったということが、
本編をちゃんと見ていたらわかるはずなのです。
赤ちゃんのころ捨てられたことに対する差別や侮蔑のこもったあだ名なのではなく、
彼女が彼女として生きると決めたその旗印にも似た名誉の名前なのです。
そこに多少の強がりも含まれるかもしれませんが。それは今後わかること。
だから、「ポスト」という名前は精神的虐待よりはむしろ精神の支えだし、
人権侵害よりはむしろ私という存在を確たるものにしてくれる証なのです。
◆フィクションと現実をイコールにすることは危険
要点3番目に対する抗議の問題点は、タレントの春名風花さんのツイートを引用することで考えてみましょう。
『 明日、ママがいない 』 素晴らしかった! pic.twitter.com/1xOcflwG0j
— はるかぜちゃん (@harukazechan) 2014, 1月 17
このあとに僕自身いろんなことをつらつらと書きますが、
もうね、このはるかぜちゃんのツイートがすべての結論です。非の打ち所がない。
でも、それだと話が終わっちゃうので、僕の言葉も書いておきます。
以下、どうぞ。
そうです。このドラマはフィクションであり、現実をそのまま描写しているのではないのです。
想像力を駆使してフィクションをフィクションとして受け取る能力が衰えると、
「この作品でこんなに傷つく人がいるだろ!」という抗議に繋がりやすくなります。
フィクションと現実は、混同してはいけません。
歴代のあらゆる創作物は常に、時代を反映してきました。
権力者の傲慢や、蔓延する思想の危険さは、詩人や小説家、美術家たちによって監視され、
彼らの作品の中に「メタファー」としてそれらへの警鐘が組み込まれてきました。
で、この「メタファー、比喩」の仕組みを危険だと考える権力者によって
何人もの表現者の首がはねられてきたのです。
メタファーには、それほどまでに現実の構造を危うくさせる力があるようですね。
でもね。やっぱりメタファーはメタファーだし、フィクションはフィクションでしかない。
メタファーが直接僕らの首を絞めにくることはないし、
フィクションの中の人物が権力者を玉座から素手で引き摺り下ろすこともないのです。
フィクションが扱うのは「現実のぐちゃぐちゃした騒動から抽出した本質的な問題」であって、
たとえばそのフィクションの世界で扱われる「ポスト」や「グループホーム」は
「メタファーとしてのポスト」であり「メタファーとしてのグループホーム」なのです。
決して「ポスト=現実の慈恵病院の赤ちゃんポスト」ではないし、
「グループホーム=現実の児童養護施設」なのではありません。
こういうドラマなどの創作物に価値があるのは、
「色んな要素が入り組んでぐちゃぐちゃしている現実」から
その時代を象徴する「本質的な問題」を高純度で抽出する力があるからです。
この作業は、現実世界の枠の中では決して達成されない。不可能なこと。
ところがフィクションはその抽出物を元に、私たちに「現実を考える」機会を与えてくれるのです。
この仕組みを理解していないとフィクション=現実という捉え方をしてしまって、
たとえば作品中に自分と同じような境遇が登場すると「私を侮辱した!」みたいな怒りを
覚えてしまうことになるのですね。
大切なことなのでもう一度言います。
フィクションの中では、現実に起きているぐちゃぐちゃした出来事から
本当に大切な問題だけを、高純度で抽出できて、
それによって大切な問題についてしっかりと考える機会を僕らは与えてもらうことができるのです。
フィクションを見て「私を侮辱した!」と思う心は「現実のぐちゃぐちゃ」から生まれます。
フィクションでは「現実のぐちゃぐちゃ」が取り除かれているはずなのに、
フィクションをフィクションとして理解できず、現実と同一視してしまうときに
フィクションの中なのに自分の「現実のぐちゃぐちゃ」を投影それに傷つく、という現象が起きます。
と、僕は思うのですが、どうですかね。
◆「明日、ママがいない」とは「無償の愛の享受は、無条件ではないし永久保証もない」ということ
本作にとって、おそらく、「ママ」とは「無償の愛」の比喩、つまりメタファーです。
だから、「明日、ママがいない」とは、「突然、無償の愛が貰えなくなった」ということ。
親に捨てられた子供、という社会問題を扱っているのに、
登場する「親」は「ママ」ばかりなのです。
「パパ」はどこまでも子供に対して無関心な存在として登場する。おお、怖っ。
本来「無償の愛・母性」の象徴であるはずの「ママ」ですが、
- 理由は知らないが子供をポストに捨てる
- 自分の恋愛を重要視して子供を施設に捨てる
- 旦那から愛されるための道具として里子を欲しがる
ような存在として劇中に登場します。
そこでは「ママ=無償の愛・母性の象徴」という等式が成り立っていません。
そんな「ママ」の元に生まれついてしまった子供たちはどうするか。
これまでの社会だったら、そういったママによる仕打ちを「私への愛」と
歪んだ形で飲み込んで、心を壊してく子供、という描写だったでしょう。
それが現実に多く起きている現象だったから。
ただ本作の脚本では違う結論を設定しているようです。
ママを私たちが捨てる
「無償の愛」への欲求を自ら放棄します。
そんなもの私には必要ないし、そもそも与えられていないし、
「無条件に愛されること」がなくったって生きていける。
それが、子供たちの強さや「ポスト」の強さを支える思想です。
この脚本、世間では「野島伸司が監修だから」という見方で語られていますが、
本当に注目すべきなのは、野島伸司氏は“監修”であって、
脚本家としてクレジットがあるのは「松田沙也」さんという方だということ。
新人の女性脚本家とのことです。
世間でも賛否両論の描写方法ですが、今後このテーマをどう扱っていって
そしてどんな着地点、あるいはヴィジョンを提示してくれるのか、楽しみです。
若い人が出てくる、というのはなんにせよいいことですから。
◆もう一歩だけ突っ込んだ解釈をしてみると…
前章で
ママ=無償の愛
パパ=無関心の象徴
として、
「明日、ママがいない」とは、「突然、無償の愛が貰えなくなった」という
現代社会において子供に起こっている問題を扱っているんだよ、と書きましたが、
もう一歩踏み込んでみます。
子供=僕ら
ママ=社会的な保障や生存安全=無償の愛
パパ=国家・行政=無関心の象徴
とおいてみたらどうでしょう・・・。
おお、怖っ!!!!!!
「明日、保障も安全もない」状況に押し出された僕ら。
世間は同情してくれこそすれ、僕らがひとつでもミスをすれば助けてはもらえない。
自分が強く生きるためには、自らの今までの名前を捨て、
つまり山野という名前を捨て、「ポスト山野」として生きねばならぬ。自転車を蹴り倒してでも。
少しだけ行き過ぎた読み方かもしれないですけど、あながち外れていない気はするなー。
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