Dr.パルナサスの鏡
監督 テリー・ギリアム出演 クリストファー・プラマー
トム・ウェイツ
リリー・コール
アンドリュー・ガーフィールド
ヒース・レジャー
ジョニー・デップ
ジュード・ロウ
コリン・ファレル
この間BSで放映していたのを録画していたので。
ヒース・レジャーの遺作ということで気になっていました。
以下、多大にネタバレです。
現代にファンタジーを、半ば強引なまでに、描いています。
作中のロンドンの街とパルナサス博士の幻想館との、ちぐはぐな共演。
20世紀的なデコラティブでファンシー、グロテスクさとエロティックの混じった演劇屋台は
とてもじゃないけれど通り過ぎる街の風景(アスファルト、ビル、若者と酒場)には
似合うはずがなく、それそのものが異物感をもって画面に映し出されます。
なんとか違和感なくその移動劇場がおさまるのは、街のはずれの川沿いの荒廃した空き地のみ。
この幻想館の「異物感」はすなわち、現代に於ける20世紀的ファンタジーの異物感に
イコールなのではないでしょうか。
この作品はパルナサス博士と悪魔との対決を主軸に、
トニーとアントン、パルナサス博士とトニーとの戦いも描かれます。
さて、Dr.パルナサスとはいかなる人物か。
彼は存在であり、愛であり、想像力の象徴です。
彼は物語をかたりつづける者として登場します。
世界が存在し続けるためには物語がかたりつづけられなければならないというのが
彼の信条(パルナサス的世界の真実)でした。
だから、密教的な寺院で門下を集めて物語をよみつづけていた。
そこに現れる悪魔は、物語の不要性を語り
それに反論するパルナサスを賭けに絡めとります。
賭けの方法はつまり「どちらが多く自らの物語に人を惹付けることができるか」です。
パルナサスが賭けにかった暁の賞品は「永遠の命」。
果たして、悪魔は博士をまんまと賭けにのせわざと負け、
パルナサスに永遠の命を与えます。
不死のストーリーテラー、想像力の魔術師パルナサス。
悪魔はことあるごとにパルナサスに賭けを持ちかけますが、
不死に苦しむようになった彼が自ら命を絶とうとしても
その都度彼を助けます。
つまり、パルナサスとの賭けの末に悪魔が欲しているのは、彼の命ではない。
悪魔がその命を奪おうと画策している相手がもうひとりいます。
トニー・シェパードという男。
登場の始めにはその名前も生い立ちも明かされず、匿名の「使わされた男」として
パルナサス一行に加わります。
白いスーツに身を包み橋桁から首を吊る。額には赤い印。
悪魔との最大の賭けに万策尽き果てたパルナサスが引いたタロットの暗示の男。
パルナサスはその入り組んだ関連性から、悪魔の手下ではないかと見ますが、
実はそうではなく、彼も「悪魔に追われる者」。
しかしパルナサスとトニーが異なるのは、トニーは命を狙われているということ。
なぜか。
パルナサスとトニーの共通点がポイントです。つまり、どちらも物語を語る者だということ。
パルナサスは「世界を存続させるため」に「想像力の産物」を物語る。
トニーは「自らを覇者とするため」に「醜さを美談で装飾した嘘」を物語る。
トニーは巧みな話術と立ち回りで、パルナサスの創造館を
瞬く間に人気アミューズメントとして繁盛させます。
その手法は、人々の自尊心や虚栄心に潜り込んでいく洞察力と会話術によるもの。
これはトニーというキャラクターに与えられた「特徴」であり、
それは登場の初期には観客に好意的に受け取られますが、
トニーという名が明かされ、彼の登場前の人格が露見していくにつれ、
救いようもない「社会的悪」の役割を与えられます。
つまり、
・自らが賞賛されるために子供の慈善事業を立ち上げ
・それを隠れ蓑に第三世界での子供の臓器販売をしている
悪魔的な存在としての話者トニー。
つまり、2人の話者はその語る物語の性質によって時代を象徴させられています。
パルナサスは前時代的話者。
トニーは現代の話者。
時代錯誤のフリル付きの衣裳に蓄えられた白髭。
スタイリッシュな白いスーツに撫で付けられた短髪。
現代の街並みと現代の聴衆に難なくとけ込むのはどちらか、答えは簡単ですね。
パルナサス一行には道化として、アントンという若者が参加しています。
パルナサスの一人娘ヴァレンティナに想いを寄せるアントンは、
不器用で商才はなく華もない。話術も気の利いた台詞のストックもない。
臨機応変の頭脳も、高い身体能力も持ち合わせていませんが、
彼は「純粋さ」の象徴としてパルナサスの想像力に組み込まれています。
アントンも物語を紡ぎます。
「ヴァレンティナを自分のものに」。愛という名の壮大で情けない物語。
トニーもヴィクトリアへの愛を表します。
彼女の窮地を知り、その状況を打破するために類希なる商才をみせる。
彼女の手を取り、腰に手を回し、外の世界を彼女に感じさせる。
若いヴァレンティナは「無垢と無知」の象徴です。
彼女の紡ぐ物語は「外の世界へ出て普通の幸せを手に入れる」こと。
物語の中盤、ヴァレンティナの愛を勝ち得るのはトニーですが、
トニーの本性が観客に示されたのち、
パルナサスが自らの想像力から抜け出したあとにわれわれは、
ヴァレンティナ的存在はアントン的男性と幸せな食卓を囲む風景を目にします。
「トニー」は「アントン」の愛称のひとつ、と言う点は興味深いギミックです。
テリー・ギリアムは、現代の社会にちぐはぐなファンタジーをねじ込むことで、
物語が「失われていく」ことは紛れもない「事実」であるという警鐘を鳴らし、
それでいて物語の「永遠性」は今なお保たれている、いや、「保たれていてほしい」
という願望をスクリーンに映し出しました。
現代的な物語は悪魔の策略によりパルナサスの関与をもって死に追いやられ、
伝統的な物語はその形を「少しだけ」変えて生き続けます。
ただ、その生はあくまでも「悪魔」に与えられた「永遠の命」によって裏付けられるものです。
悪魔は何故、トニーの命を奪い、パルナサスの命を永遠のものにしたのでしょうか。
答えは簡単です。悪魔は自覚的です。
悪魔自身が「悪魔」こそ「物語の産物」だと理解しているからです。
物語のないところに「悪魔」は存在し得ないのです。
「悪魔的な存在」は物語の無い現代によって安易に製造されます。
しかし、それはあくまでも「的な存在」であり、それは時代の変化に呼応して
常に新陳代謝を繰り返します。常に、死を迎え続けるのです。
が、物語によって生み出された「悪魔」は、物語が存在するかぎり、
その物語がどれだけ形を変えても、「悪魔」として存在し続けます。
パルナサスに与えた永遠の命はそのまま、悪魔の永遠の命をも保証します。
悪魔は賭けによってヴァレンティナの命を手に入れようとしますが、
実はそれは悪魔にとってどうでもいいものでもあります。
真の目的は、パルナサスを窮地に陥れること。追いつめられた想像力ほど
輝きをもつものはないからです。
そして、物語の放つ光が強ければ強いほど、生まれる影も深く濃くなります。
トニーを死に追いやり、パルナサスに無限の生を与えることによって、
テリー・ギリアムは物語の不滅を宣言します。
愛はアントンに(平凡に)引き継がれ、パルナサスが想像力を象徴し、
ヴァレンティナには「ささやかな幸せ」という物語を選ばせます。
まるで、母性こそ最良の想像力、とでもいわんばかりに。
不死のパルナサスが手に入れたものは、反自己としての悪魔と、気心の知れた小人です。
テリー・ギリアムのグロテスクなファンタジーに、出口はあるのでしょうか。
パルナサスの創造館に足を踏み入れる観客は、
鏡を通して自らの想像力を増強させる世界に入ることが出来ます。
そう、鏡を通して。
自らを映す、鏡を通して。
その中では常に、選択を迫られます。誤れば、現世への帰還はできません。
テリー・ギリアムの突きつけた選択はなんなのでしょうか。
彼は、トニーではなくパルナサスを生きながらえさせました。
そして、鏡と最愛の娘を失ったパルナサスは、
小人とともに路上で、紙の芝居箱を売ります。
創造館の入場者は、常に大人達でしたが(子供は入場厳禁)、
芝居箱が手渡されるのは、母親に付き添われた「子供たち」です。
yy
山野はほしいものがたくさんあります!
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