就職氷河期という言葉がクロースアップされてから、一体どれくらい経ったでしょう。
最近だと日清カップヌードルのCMがなかなかぶっ飛んでます。
この頃の若者の就労意識の流れを見ると、
いちに就職、ににNPO、さんに起業、みたいな印象があります。
その他学位をとるとかアーティストになるとかいろいろありますけど、
どれを選択するにしても共通してある“持たなきゃいけない意識”が
「自分のやりたいことを見つけろ」ということな気がします。
やりたいことがあるから圧迫面接も乗り越えられる。
やりたいことがあるから起業にもチャレンジできる。
やりたいことがあるから貧乏でも夢を追い続けられる。
「やりたいことを見つけろ」が若者にとっての新興宗教みたいな状況ですね。
◆やりたいこと=職業という発想“だけ”しかない社会は切ない
高校時代からやりたいことを見つけて今もなおその道を目指してる僕が言うのもなんですけど、
やりたいことを絶対見つける必要なんて、どこにもないです。
この言い方は語弊があるのでもう少し詳しく言うと、
今取沙汰されている「やりたいこと」は既存の職業や
あるいは新しいビジネスチャンスにイコールで結びつけられている概念であり
僕たちがよく聞かされる「やりたいことを見つけろ」は、
「就きたい職業を見つけろ」とほぼ等しいものだ。
だから、「職業に直結するようなやりたいこと」を絶対に見つける必要はどこにもないです、が本当です。
歌を歌いたいです、といえば、音楽家なんて食えないからやめろ、とか
星を見るのが好きです、といえば、天文学なんかで働き口があるのか、とか
そういう発想になるでしょ。これ、切ないです。
アインシュタインは特許局に勤めながら、自分の物理研究をすすめました。
本居宣長は生活のためにまず小児科医を開業し、傍らで国学の勉強を続けました。
もし、当人のやりたいことが職業=食べることに直結しなかったとしても、
やりたいことをやり通す方法は、現代だろうとあるはずなのです。
でも最近のネットや雑誌の「意識の高い記事」では、
やりたいこと即ち生業とせよみたいな論調に偏っている気がする。
親や教師による進路指導も、そういった発想に近いですよね。
◆やりたいこと、はなんだっていいはず
食えなくても絵を描きたいから、食いながら余暇のある職を探す。
そういう生き方がもっと世間によって提示されてもいいような気がします。
さらに言えば、趣味とか特技とはまた違った「やりたいこと」の存在も
もっと大事にされていく方がいいんじゃないかなと思います。
大好きな両親の傍になるたけ一緒にいてあげたい、とか
身近な人たちを幸せにしてあげたい、とか
そういうことだって立派な「やりたいこと」でしょ?
毎晩自分で料理を作って食べるくらい余裕のある生活をしたい、とか
隙間時間を見つけなくても月に5冊は本を読めるようなリズムで暮らしたい、とか
そういうの、ほんのささやかだけど人によってかたちの違う「やりたいこと」を
すべて「素敵だね」と言えるような社会になったら、
この国はもうひとつ上のステージに上がれるような気がします。
これを横文字でQOL(クォリティ・オブ・ライフ)とかいうのでしょうか。
◆社会が用意した回答欄に当てはまるような答えばかり探すのはやめようぜ
「やりたいこと」も「自己PR」も、社会が用意した設問です。
人の生き方を考えたときに出てくる答えは、その回答欄に当てはまるものだけではないはず。
巷にあふれる「サクセスストーリー」や「成功談」は、社会によって編纂された物語です。
もちろん、迷うことなく生活することと直結する「やりたいこと」が見つかっている方や、
生活できなくても貫き通したい「やりたいこと」があるいう方は、それでいいと思うし素敵なことだと思います。
ただ、もし「やりたいことはなんだ?」と誰かに聞かれたときに
胸の奥がチクッと痛んだり、頭の中が真っ白になっちゃうような人がいたら、
「社会が気に入るような答えを無理矢理みつける必要はないんだ」ということだけ覚えておいてください。
やりたいことはやりたいこととして、とりあえず生活をするために職を得る
という生き方を恥じる必要なんて全くありません。
僕はそう思います。
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