2013年12月20日金曜日

音楽体験には2種類あるのじゃないかな、という話






先日とある演奏会を聞きにいったときに、
「パントマイム」という題のフランスの歌曲を聴いたのですが、
その対訳を読みながら、

これって、日常的に即興劇をみていた昔のフランス人と、
日本で生まれ育って知識として「コメディア・デラルテ」を知っている僕とでは
随分と見える景色が違うな

とあらためて感じました。
いや、本当に当たり前のことだし、何を今更っていう話なんですけど。



おそらく昔のフランス人は日常風景やその時の経験を思い出しながらその曲を聴いたのでしょうし、
僕は僕で自分が体験したことのない異国の文化として聴きました


その瞬間ひらめいたのです。
音楽体験とは、どうやら大きく2種類にわけられるのではないか、と。


昔のフランス人による体験を、「いま・ここ」の音楽と名付けます。

そして、僕にとっての体験を、「ここではないどこか」の音楽と名付けます。



「いま・ここ」の音楽が、それを聞いた人に思い起こさせるのは、
懐かしさや思い出といったこれまでの自分を形成してきた物事たちです。
昔聞いた流行の歌は当時の思い出や世相を呼び起こさせ、
若かった自分の姿や恋の経験を追体験させてくれます。
それと同時に、同じ歌を聴いて育った同世代との共通の話題となったり
同じ歌を口ずさめることによって一種の連帯感を生んでくれたりします。
「いま・ここ」の音楽は、所属欲を満たし、自分のこれまでをノスタルジックに彩り、
ここでこうしている自分の人生はそれほど悪いものじゃないな、という
柔らかい自己肯定で聴くものの背中を押してくれます
そして、「いま・ここ」にいる自分の存在を、過去からのベクトルで証明してくれます。


「ここではないどこか」の音楽が、それを聞いた人に思い起こさせるのは、
新鮮さや驚きといったこれまでの自分には経験したことがないなにかです。
異国情緒のある旋律や和音は自分がその場にいることを忘れさせる力があるし、
これまでになかったサウンドや音楽は、知らないことへのワクワク感を与えてくれます。
その音楽をすぐに受け入れることは難しいかもしれないけれど、
そのとき感じている不安や不安定さが「ここではないどこか」の音楽の魅力です。
それを理解するためのサンプルを自分の過去に求めようとしても、見つかりません。
ここではないどこか」の音楽は、自分の決まりきった価値観をぐらつかせ、
これまで正しかった自分の感性の存在に真っ向から勝負を挑んできます。
そして、いまの地点から「ここではないどこか」という未来へ進む自分の存在を
僕たちの目の前に突きつけてきます。




クラシック音楽の主な市場が、現代の作曲家による新作曲ではなく
過去の作曲家たちによるメジャーな楽曲の再現演奏であることから、
クラシック音楽の市場の大きな部分は「いま・ここ」の音楽へのニーズによって
占められていると考えられます。

でも本来ならば、クラシックのどんな名曲も、
初演当時は「ここではないどこか」の音楽として聴衆に受け入れられていたはずです。
作曲家たちはこぞって「今までとは違う音楽」を作り出そうとしていたわけですから。




音楽そのものの系統分け、というよりは、
音楽とそれを享受する人の心の関係を分類してみた、というのが
「いま・ここ」の音楽と「ここではないどこか」の音楽の違いです。
この違いを念頭に置くと、演奏会のプログラミングの仕方や
聴衆は何を求めているのか、という問題を演奏者が考えるときに便利そうな気がします。
次回、その点を考えてみます。







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