2013年12月21日土曜日

選曲の尺度に「いま・ここ」と「ここではないどこか」を利用してみる、という話






昨日、音楽体験には2種類あるのじゃないかな、という記事を書きました。


音楽体験には2種類あるのじゃないかな、という話


簡単に書くと

音楽を聞いたときの体験には

・以前から慣れ親しんでいて、聴き手の思い出を構成している音楽
・初めて聞く音楽

の2種類が合って、それぞれを

「いま・ここ」の音楽 
「ここではないどこか」の音楽

と(僕なりに)名付けてみた、という話です。


「いま・ここ」の音楽は、聴き手の人生に大小さまざまな影響を与えていて、
あるいは、同世代や同じ趣味の仲間と同じ音楽を共有することによって
聴き手の所属・承認欲を満たしたり、自己肯定を促してくれます。

「ここではないどこか」の音楽は多く、聴き手が初めて体験する音楽で、
それが聞き手の感性に与えるのは未知への不安や高揚感です。
保守的な心情にとって、ときにそれは「不快感を伴う異物」として映るでしょうし
好奇心旺盛なマインドにとっては、「ワクワクするもの」として映るでしょう。




演奏者にとって本番にのせる楽曲は、
「いま・ここ」の音楽でも「ここではないどこか」の音楽でもあります。
長く聴いて憧れた曲を一所懸命練習して舞台にのせる際にはすでに
その音楽は演奏者にとって「よく知った曲」ですが、
演奏する瞬間にはその都度
「上手くいくかどうかわからない、自分をどこに運んでくれるかわからない」
「ここではないどこか」の音楽という側面も持っています。
なんでこういう事態が起きるのかというと、僕たちは演奏者でありながら
同時に、とても高度に訓練された「聴き手」でもある、からです。
高度に訓練された聴き手は、たとえ毎日同じCDを再生して聴いていても
そこから毎回違う情報を受け取ることが可能です。


高度に訓練された聴き手ばかりが自分のコンサートの聴衆の場合、
僕たち演奏者は演奏会のプログラムについて、それほど頭を悩ませる必要がありません。
おそらくどの曲を演奏しても演奏自体の良いところと悪いところを冷静に聞き取ってくれるし、
それを踏まえて演奏者が何を大切にしているのかを敏感に受け取ってくれます


でも日本の音楽市場に於いて高度に訓練されている聴き手の人数はそう多くないし、
仮にいたとしてもその人たちは「既存の市場」に存在しています。
このままの市場規模だと先細りしていくしかない(クラシック)音楽産業を考えるとき
新規市場を開拓しないことにははじまらないですが、
間違いなくそこには高度に訓練された聴き手は、まだいないのです。


となると、ごく一般の聴き手や初心者の聴き手が、僕らの顧客の多くになるワケで、
その条件下だと「どんな曲を演奏しても楽しんでくれる」とはいかなくなりますね。
「いま・ここ」の音楽と「ここではないどこか」の音楽をバランスよく配置する必要のある演奏会が出てきます。

「いま・ここ」の音楽が演出するのは「安心」や「承認」です。
「ここではないどこか」の音楽は「緊張」や「不安定感」を与えます。
聴き手としては、安定してばかりではつまらないし、
緊張させてばかりではさらにつまらないですね。



演奏者が「やりたい曲」が必ずしも、聴衆が「聴きたい曲」ではなかったりします。
演奏者は自然にしていて、高度に訓練された聴き手ですから、
その感覚で「この曲はメジャーだろ」とか「知らないかもしれないけれど面白いから」と
選曲をしても、聴衆の心情との距離が開いてしまうことがあります。

「知っている」「知らない」「メジャー」「マイナー」という尺度だけでなく、
その楽曲は、聴衆の人生とこの場を繋いでくれる「いま・ここ」の音楽として機能するのか、
聴衆の人生に刺激を与え、この地点をスタートとして「いま・ここ」の音楽に変わっていく可能性のある「ここではないどこか」の音楽として機能するのか、という視点を持つことで、
プログラミングの起伏が、より鮮やかなものになる気がします。


本当に最近気づいたことなので、これからの自分のコンサートで
この2つの考え方を利用したプログラミングを試していきたいと思います。
そんなことずっと前から実践してるよー!という方は、
実践してみての感想などなど教えてください!




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