2014年1月5日日曜日

自分の個性については直接自分で考えることをやめろ、という話

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学校に通っていたり、身の回りに同じことをやっている人が多い状況だと
どうしても常にライバル心が意識内にあって、
「どうにかしてこの集団の中で飛び抜けてやろう」という気持ちがはたらくことが多いと思います。
少なくとも僕は大学時代そうでした。

わざとおかしなことをしてみたり、目に留まるような服装をしてみたり、
大きな声で話すとか、ちょっと目立つような振る舞いをするとか。
毎日学校に行けば百人規模の友人知人と顔を合わせるわけですから、
そのなかでちょっとでも「特別になろう」と思うと、
年端もいかない若者が想像できる方法論なんて、あとで思い返せば
恥ずかしいだけの代物です。でも、その時はそれが一所懸命なんですけど。



僕はいま、日常的にコミュニケーションをとる人が両手両足で数えられるほどという生活をしています。
その中では、僕に似た人というのは居ないし、同業者もそれぞれに多様な活躍の仕方をしているので
「僕はこのまま埋もれていくだけなんじゃないか」みたいな危機感を抱くことは少なくなりました。
プロの歌い手として第一線で活躍するにはまだ実力が足りないことは冷静にわかっていますし、
そうするとあとは、足りない能力を身につけていくことに時間をかけて、
適正なブランディングをして…というわかりきった作業になるので、大きな焦りもありません。


この考え方を大学時代から、もっと言えば高校時代から持てていたら
僕はもっと人を傷つけることなく時間を過ごせたのではないかな、と思います。


そうです、自らの焦りを理由にして自己演出された「個性」とは
結構頻繁に誰かを傷つけるという性質を持っています。不思議なことに。


自らの焦りを理由にした自己演出とは、
自分が目立ってやろう、自分だけ特別になろう、注目を集めよう、
そういう気持ちを伴った行動選択のこと。
ときには、その焦りを自分で意識していない場合もあります。僕はバリバリ意識してましたが。


自己演出された「個性」は、「個性」と呼べないのではないでしょうか。
「個性」というのは、本人が判断するものではないのです。おそらく。
その人を見たときに、行動や言動、能力が表出されたそのゴール地点で“第三者”が感じ取れる特徴や傾向、あるいは味みたいなもののことを、「個性」というのです。きっと。



若いうちにバリバリの個性が溢れる人間なんて、ほんの一握りでしょう。
僕も含め、多くの人は凡人です。
その、僕は凡人だ、という事実を受け止めてから、僕自身は生きることが楽になりました。




たとえば就職活動や、たとえば自分のアーティストイメージを考えるときに
「僕の個性ってなんだろう」と考えることが辛いことがあります。
なんにもわからなくなって、自分の無力さに途方に暮れることがあります。
そういう時は個性について考えることをやめましょう。

その代わりに、自分にできることと自分にできないことはそれぞれなにかを考えましょう。
もし、それぞれ5個ずつあがったとしたら、その組み合わせこそが紛れもない個性です。
10個ずつあがったとしたら、もう組み合わせとしてあり得ないくらい貴重な個性です。

僕のできることは

低い声 × クラシック × ジャズ × さだまさし × 料理 × ファッション × 文章 × おしゃべり

です。
これにさらに

合唱指導 × 吹奏楽指揮 × モデル × 映画評論 × 村上春樹評 × 演技 × フットワークの軽さ × 伝統を好む

が加わったとしたら、たぶん同じ組み合わせを持った人間は世界にそうはいません。

「個性を考えること」をやめて、出来ることと出来ないことを考えると、
そこには自ずと、頑張って考えずとも、個性が見えてきます。
大きな声や奇抜な言動や人を傷つける鋭さも必要ないのです。


高校では、センター試験の勉強だけじゃなくって、こういうことを教えてほしかったな。
倫理の授業なんて、思想史丸覚えってだけでしたもんね。




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