2014年1月24日金曜日

批判には二種類ある、という話










もしも、あなたがなにかを、反射的

批判したい!反対したい!否と言いたい!

と思った場合には注意が必要です。




僕たちは日々、いろんな場面で「判断」を迫られます。
そしてそれは常に大きく2つにわかれます。

肯定か、否定か


このとき、否定のベクトルに自分の心が傾くとき、
もしかしたらその否定の原因は、対象ではなく自分にあるかもしれません。



ツイッターを眺めていると、毎日どこかしらで議論がおこっていますよね。
テレビをつけても討論番組とかだと、批判や否定の嵐が巻き起こっています。
当然、自分の意見と相手の意見との整合性を比較したときに、
相手の意見の方に落ち度や欠陥がある場合は、その箇所を指摘して
正当に批判をするということが必要です。

ただ、なにかを批判するという行動は、
相手の意見や状態よりも、自分の心理状態によって大きな影響を受けるという特徴があるようです。



最近気付いたんですけど、ある種の否定って、否定する対象のことを知らなくても出来るのです。
よくよく相手のことを考えて観察して答えを出さなくても、
「なんか生理的にヤダから」という理由で僕たちは、声高に批判をすることが可能なのです。

で、多くの場合、そんな条件反射的な「吟味のない批判」に対して
批判をした張本人はその事実を把握してなかったり、目をそらしたりします。


じつは批判には2種類あります。

ひとつは、
まず相手の言い分を受け入れて、その言い分を十分精査した上で
冷静にみてマズいところがありますよー」と指摘をしてあげる批判
これを肯定的批判と呼びましょう。

もうひとつは、
相手の言い分をはなから受け入れず、その言い分の根拠もろくに調べず
自分が否と感じたから!」という理由のみで突きつける批判
これを否定的批判と呼びましょう。
上に書いた、否定する対象のことを知らなくても出来る否定のことです。



肯定的批判は非常に建設的な批判なので、必要な場面ではちゃんと利用した方がいい。

ところが否定的批判はそもそも対話になってないし、ってことは議論にもなってないし、
「お前の土俵にはあがってやんねーし、こっちの土俵にもあげてやんねーし、
 そもそも俺の土俵が正しくてお前の土俵が間違ってるんじゃ」という
なんとも暴力的な行動なので始末におけません。
でも世の中を見ていると、この否定的批判が蔓延しているように思えて仕方ありません。



また少なくない割合で、自分では肯定的批判をしていると思い込んでるけど
心の動きとかをよく見てみると否定的批判しかできていない人というのがいます。
僕も以前そうでした。

「こっちの話も聞いてよ!」と言われても、自分では聞いているつもりだし
その話を踏まえて内容を精査して批判しているつもりなのに、
相手にはそう受け取ってもらえない。「頭っから否定されているみたいで嫌だ」と言われる。


経験者は語る、じゃないですけど
否定的批判をする場合、その多くは反射的に、ほぼ瞬間的に判断がされています。
だから、反射的に批判をしてくる人を見つけたら要注意です。
その人はあなたの話を最初から聞いていないか、聞いている振りをして実は聞いていないかのどちらかです。


あと、すでに書いたように、否定的批判はその意見をちゃんと理解してなくても出来ます。
自分の発言を最後まで聞いてないのに批判してくる人がいたらこれも要注意です。
その人が心から建設的な議論をしたいと思ったら、あなたの話を最後まで聞く前に
判断をすることはないからです。



違う脳みそを持って、違う人生を生きてきた複数の人間が出会ったときに、
そこで衝突や摩擦が起きて、議論が起きるというのはとても当然のことです。
けれどそのときに、否定的批判の応酬のみで話が進んでいくと、
あとに残るのは焼け野原か乾ききった砂漠だけ。


もし自分が反射的に批判を口にしたくなる癖があると自覚している人は、

「本当にちゃんと相手の話を聴けているのかな」
「相手と対話が出来ているのかな」
「相手より自分が優れていると心の中で思っていないかな」
「相手より自分が劣っていると思い込んでいて、それに不安を感じていないかな」

と自問自答してみるといいかもしれません。






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