2014年1月22日水曜日

どうして音楽家は哲学者でなければならないのか?についての僕なりの答え、という話








昨日、哲学の本を紹介しましたが(人生相談とはただ愛情によってのみ生の対話となる
そこにも書いたように、僕は哲学が好きです。



「哲学」にはじめて出会ったのは


「哲学とはなにか」
いちおう僕の中での最新の定義をかくとしたら

たくさんの対象の中で自分が生きるためには、と考えること

と答えます。




僕がはじめて「哲学」の存在に触れたのは、中学生のとき。
たぶん2年生のときだったと思いますが、新聞の書評欄に「ソフィーの世界」という本が
とりあげられていました。

著者のヨースタイン・ゴルデルはノルウェーの高校の哲学教師。
若い人向けに哲学への導入の役割を持たせるようにこの本は書かれています。

この「ソフィーの世界」は哲学書というよりは、いろんなわかりやすい比喩を用いて
思想史を紹介している本といった方がふさわしいですが、
僕が哲学に興味を持つのにも一役買っているので、なかなか意義のある本です。



その後、まず「哲学」という言葉とその存在を知ってしまった僕は
「なんだよ哲学かっこいいじゃん!」という、ちょっとミーハーなキモチで
いろんな「哲学」と名のつく本を読みました。


特に傾倒したのは池田晶子さんの本で、
「14歳からの哲学」にはじまり、池田さんの著書は図書館にあるものすべて読みました。
いまでもたまに読み返します。
「メタフィジカル・パンチ」とか大好きです。






哲学は都合のいいリーサルウエポンではない


その頃から実に大学3年になるぐらいまで、僕は「哲学」のことを

あらゆる問題をとたんに解決してしまうものすごい武器

だと思ってました。
大学3年まで、なんてホントに最近までです。長い期間。
いま思えば勘違いもはなはだしい。


じっさい、自分が直面した「僕ってどんな人間?」という果てのない問いや
友人が持ちかけてくる「人間関係どうしたらいい?」みたいな問いに
僕が本で慣れ親しんだ哲学の手法は、バンバン答えを出してくれたのです。
あらゆる問題に対してそれぞれに、ただひとつの答えを。

「なにごとも考えるしかない。考えて考えて考えるのだ。(そうすれば答えは出る)」


本当はその結論にいきつくまでに、自分の人生や、相談してくれる人の人生の
不安とか期待とか恐れとか、心の傷、心の穴、いろんな事情みたいな
些細な「ディテール」を少しずつ集めていって、
そういうものを大事にした上で「冷静に考えみようか」というところに
行きつくのがいいはずなのに、
当時の僕といったらディテールも対象もなく
「すべては考えれば解決する。考えないことからすべての間違いが生まれる」
と本気で信じていたんですね。

「考えれば解決!」という思考停止に陥っていました。まったく恥ずかしい。

哲学は、あるいは考えることは、ただその存在だけで
すべての悩みや問題を打ち消す「リーサルウエポン」みたいなものだと勘違いしていたのです。





哲学とは、誰かと生きるということを考える営みだ


そうやって過ごしていく中で、ちょっとずつ僕の中の「尖った部分」が
ハタチをこえてからすこーしだけ丸くなりました。どうしてかわからないけど。

それまではその「尖った部分」が「哲学かっこいい!」を無条件で支持していましたが、
これが丸くなると、自分の状況がちょっとだけ冷静に見えてきます。

「考えれば解決!」と最強兵器的に(人の話も聞かず)言い続けてきたけど
それって結局、いろんな人を傷付けてきただけなんじゃないの

ということにも気付きます。


僕は、哲学を、「誰かに対してなんとなーく優越感を得るための道具」
としか捉えることが出来なかったんだと思います。
自分の悩みや誰かの問題を解決するために、ではなく
哲学という武器を使ってどんな問題も解決できちゃう山野カッコいい、
っていう自己陶酔状態。
そんな僕は相当キモチワルかったことでしょう。
(そのキモチワルい僕とも付き合ってくれてた、そしていまも付き合ってくれてる友人たちには感謝するばかりです)


で、そんなんあかーん!って気付いてからこっち、
「じゃあ、本当は哲学ってなんなの。誰を牽制するでもなく自己満足でもなく
いろんなことを考えるってどうやったらいいの。」
と考え続けてきました。


ぼんやーり考えたり、深刻に考えたりして
ある日、ポンっと気付いたのです。

「もしかして、こうやって
“誰を牽制するでもなく自己満足でもなく
いろんなことを考えるってどうやったらいいの”
って考えてるこれが、まさしく哲学そのものなんじゃないか?」

って。




哲学には必ず、能動的に考える主体と、主体によって考えられる対象が存在します。
つまり、自分がいて、相手がいて、相手と自分の関係ってどんなかなーとか
Aさんの前とBさんの前の自分は、それぞれ違う振る舞いをしちゃうのはなんでかなーとか
今こうして椅子に座っているけど、本当はこの椅子は存在しなくてマトリックスなんじゃないかとか。
考える「わたし」がいることと、考えるテーマである「あなた(人でも物でも)」がいることではじめて
哲学という営みがスタートします。

こんな風にして
関係から生まれるいろんな疑問を考える、ってのが、哲学なんじゃないかと思い当たって、
ということは、自分と関係を形成してくれている対象のことも含めて考えなきゃダメなんだと、
これに気付いたのです。いや、当たり前なんですけどね。


最近までの僕は、
「僕と対象」を考える俺(ってかっこい〜)
「僕のことを考える僕」を観察する俺(ってかっこい〜)
という、「俺ってかっこい〜」目線でしかものを考えられなかった。


でも今は、
相手(それは人間でも物質でも現象でも)と自分の関係、
その間のエネルギーのやり取りで何が起こるのか
という視点を持つことができるようになった。


いやね、「そんなことアタシは前から出来てるし、当然のことでしょ?」
って仰る方もいますよね。
でも、たぶん僕みたいに「本当は相手ありきのコトを考えているのに、いつの間にか自分のことしか考えられなくなっちゃう人」って
案外多いんじゃないかと思います。
もしかしたらこのブログを読んでくれてる方のなかにもいるかもしれない。
それは冗談とか、冷やかしてるとかでなしに。



僕が、誰かと生きるから、そこにいろんな摩擦が生じて
それが疑問という形になって、考えるべき事象があらわれてくるのです。
その問題たちを「どうしたら気持ちよくお互い生きていけるかな」と観察するのが
哲学のプロセスのような気がします。
難しい専門用語とかは、本当は必要ない。あれば便利なんだけど。



で、このプロセスを親からのしつけで、あるいは親の反面教師として
小さいうちから自然に身につけてしまっている人が、実は世の中にいます。
けれど、そうじゃない大勢の人間は、このプロセスのことを学ぶ機会がなく
大人になっちゃっている場合がある。もしくは、完全に身につける前に大人になっちゃう場合がある
でもこれが訓練できないと、
誰かと生きているつもりが、自分ひとりでしか生きていない人になっちゃう。
事実、僕はつい最近までそんな感じでした。
どこまでも自分ひとりで生きているやつ。
喧嘩しようが笑い合おうが、その心の中を開いてみるとそこにいるのは自分だけ。
怖いなー、恐ろしいなーって、振り返って感じます。










音楽家は音楽のことだけを考える人ではなかったはず


ちょっと長くなっちゃいましたけど、もう少しお付き合いください。

こうして「哲学」について、その捉え方が変わってきたことで
僕が音楽家として、ひとつわかったことがあります。
とても、たいせつなことです。



むかし、ほんとうにむかし。
音楽家は、ただ音楽を作って演奏する人ではなかった。

音楽とは自然哲学や天文学の範疇に大きくまたがっていた
哲学的問題だったのです。

だから、むかしの優れた音楽家は音楽家でありながら同時に、
哲学、神学、物理学、文学、天文学などなど
ありとあらゆる「世界のしくみ=人の心、を解き明かす学問」に精通していました。

ひとりの人間として世界に産み落とされ、その森羅万象に驚き、
「世界はどうしてこうなっているのか。人の心の動きとはどういうものなのか。」
を一所懸命考えに考え抜いた、その一番最後のアウトプットが、たまたま音楽という方法で、
この音楽という方法を巧みに操れた人に「音楽家」という肩書きが与えられていたのです。




でもいまの僕たち、現代のクラシック音楽家には、
人類の歴史が積み上げてきた偉大な音楽作品たちという遺産があります。
いま僕らの一番の感心ごとは、
「この名曲たちをどう上手に感動的に演奏するか」です。

世界はどういうしくみなのか、人の心の動きの秘密とはなんなのか。
そんなまどろっこしい哲学的問題を経由せずに、
音楽作品自体をこねくりまわしてそこから芸術の神秘を見つけだそうと必死になっています。
それはまるで「死とはなにか」を考えもせずに、死体の腹の中を弄くり回して
そこから「死」を見つけようとしているマッドサイエンティストの姿のようです。


事実、多くの若い声楽家は、
ある曲を歌うときにその曲の歌詞となっている詩をどう解釈するかによって
その楽曲の美しさを最大限に引き出せると信じて疑いません。
(もちろんそうでない方もたくさんいらっしゃいます。)


けれどもしかしたらその詩は、哲学と修辞学と神学と自然科学にまたがった思索ののちに生み出されたものかもしれないのです。


この事実に気付いたとき、僕は呆然としました。
「すべてが音楽に繋がる」とか「すべて音楽に出るからね」とか
耳が痛くなるほどに聞かされてきたことばは、
このことを言っていたのかと。

僕が格好良くいれば格好いい音楽になるとか、
僕が面白く振る舞える人であれば魅力的な音楽を演奏できるとか、
そんな薄っぺらい意味じゃなかった。


音楽家は昔、哲学者であり、自然哲学者であり、天文学者だった。
その集合体が、その英知と思考の結晶が音楽だから、
「すべてが音楽に繋がる」「すべてが音楽に表出する」のですね。




ずいぶんとややこしいはなしを長々と書いてしまいました。
この文章のどこか一カ所でもあなたの心にひっかかれば、と思って書いてみました。
上手くまとめきれませんが、24歳になった僕がとりあえず辿りついた
「哲学とはなにか」の答えです。



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