2014年9月18日木曜日

「地下鉄でプロのバイオリニストが見向きもされなかった!」みたいなネタあったけど…、という話








去年ぐらいに音楽家界隈でも非常に話題になった心理実験。

【心理実験】「本物のプロ」が道ばたで3.5億円のバイオリンで演奏→「誰も見向きもしない」 
リンク:http://news.ameba.jp/20130630-190/


というやつ。
覚えておられる方も多いのではないかと思います。

英語版の記事はこちら。
http://blog.longnow.org/02011/05/17/do-you-have-a-moment-for-pure-genius/



実験内容はこんな感じ。

場所はワシントン市の地下鉄駅ランファンプラザ。
時間は金曜の朝のラッシュアワー。
エスカレーターの前にストリートミュージシャンが陣取り演奏をして
いったい何人の人が立ち止まるか、というもの。
けれど特殊条件があって、このストリートミュージシャンがただのヴァイオリニストでなく、
クラシックのヒットチャートや様々な賞の舞台に登場する現代の名奏者ジョシュア・ベルで
しかも使う楽器が3.5億円するストラディヴァリウスだそうで。

そんなに条件的に素晴しい演奏を、慌ただしい毎日を送る私たちの心は
日常の地下鉄の風景から見つけだすことができるのだろうか、的な投げかけがされていた実験です。

実際の動画も記事末に載せますが。



この実験がネットで取沙汰されていた時、
少なくない数の演奏家から「由々しき事態だ」とか「悲しい」とか
「クラシックの行く末は暗い」とか、そういう感想が発せられているのを目撃した覚えがあります。


で、なんでいまさらこの話を持ち出したかと言うと・・・


どうやらこの実験、心理学的には条件設定と結論の関係が間違っているようです。
というか、「間違っている」という指摘があるようです、が正しいのですが。


「錯覚の科学」という本に、この実験についての言及がありました。





 この実験を行い、記事にしたジーン・ウェインガーデンは
「世界最高の演奏家による珠玉の作品の演奏に、しばし足を止めて耳を傾けるゆとりもないとしたら。人々が現代社会の大波に呑まれ、これほどの存在を目にしても耳は聞こえず、目も見えなくなっているとしたら———私たちは、ほかにどれほどのものを失っているだろう」
とコメントしています。
世間的なリアクションも概ねこんな感じでした。
ただ、「錯覚の科学」の著者であるクリストファー・チャブリスとダニエル・シモンズは
そのコメントに対しこう返しています。
「この実験では、美に感じる心が失われたことは証明されていない。実験で言えるのは、人は一つの作業(職場にいくこと)に、注意(視覚および聴覚)を集中させているとき、予期せぬもの———名ヴァイオリニスト———に出会っても、気づく可能性は薄い、ということだ。」

金曜の朝、ラッシュの地下鉄。
職場へ急ぐ人々は、自分の目的=出勤に集中しているため、
視覚や聴覚をそのための情報収集と処理に傾けている。
その状況では、予想される出来事(前の人が急に立ち止まる、出勤を急かす電話がなるetc..)
への対応力は十二分に機能するが、
予期せぬ出来事に対する対応力や気づきは著しく低下するのだ、というのが
チャブリスとシモンズの主張です。
そして、確実に音を聞いたりヴァイオリニストの姿を視覚で捉えているのにも関わらず、
“まるで存在しないかのように”気付かない現象が、錯覚として起こると本書を通して記述しています。



いや、これがけっこう面白くて。
普段自分では、「いや、それ気付くでしょ」と思うようなことを
仕事の上とかで他人が気付かなかったりして、
その人のことを“能力がない人だなー”とレッテル張りすることとか、ありますよね。
みんな経験のあることだと思うんですけど。

これは、ただ単にその人が注意力散漫で能力がないだけではないのかもしれないようです。
自分の能力認識に対する錯覚として、誰でもある割合起こりうる現象なんですって。

本の中ではセンセーショナルな実験として
「試合中のバスケットボールコートに乱入するゴリラを見つけられるか」という物が取り上げられていますけれど。
これ、文字だけで書かれると「いやいやいや、そんなのすぐわかるっしょwwww」と思うでしょうが、
ある条件付けをさせられてその作業に集中していると(たとえばパスの回数を数える、など)
乱入するゴリラに気付かない人がほぼ50%の割合でいるそうですよ。



世の中には、知らないけれど興味深い事実というのがたくさんあるものです。
僕たちクラシック演奏家は、あまりにクラシック音楽に思い入れがありすぎるため、
地下鉄で演奏する名バイオリニストに気付かないなんて・・・!!?と
少々ながら過剰に(半ば反射的に)思ってしまうものですが、
実験の条件を冷静に考察してみると、
少なくとも芸術の無力さを証明する実験ではないんだ、ということが理解できます。




本の中では、

実験の場所が騒音に包まれたラッシュの地下鉄でなく、
大道芸人が平均的な数の客を集められる平均的な通りを選んで

かつ、ベルが弾いていたような通勤者に馴染みのない曲<死の舞踏>ではなく
ヴィヴァルディの<四季>などの有名な曲を弾くこと

ワシントン市民が真に日常の中の芸術を見つけることができるかを検証することができたのではないかと指摘されています。



いやはや。
ネットのニュースとかバズるネタとか、
かなりセンセーショナルに書き立てられていることが多く、
またそれについてのコメントなんかも、爆発的に感情的なものがついていたりすると
自分もその勢いに乗ってしまいがちだったりしますけれど、
あるひとつのトピックスでも広い視野からの考察を伴うと、
世間が騒ぎ立てる結論とは別の着地点が見えてくるというのはあるのかもしれません。

センセーショナルなニュースに煽動されて視野の外の広い風景が見えなくなる現象も、
あるいは『錯覚』なのかもしれませんね。







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