風立ちぬ
監督・脚本・原作 宮崎駿
出演 庵野秀明
瀧本美織
風立ちぬを観てきました。
以下、ネタバレを含む感想です。
映画の感想として僕が書くのはだいたいこんなことです。
・夢と現実の境と時間の連続性を意図的に壊している
・航空映画としての風立ちぬは、純粋培養されたロマンだ
・恋愛映画としての風立ちぬは、肥大したマチズモだ
結論:宮崎駿はなんの答えも提示しなかった
いつでも、その時代を代表する人物というのはいるもので。
多くの場合そういう人はふたつの種類に分かれます。
ひとつは、その時代を反映する人。
もうひとつは、未来をみさせる人。
こういった人種はおおく、クリエイターや芸術家、ビジネスパーソンなんかで、
あるいは小説家文筆家評論家、漫画家、建築家、デザイナーなどなど。
政治家からはあまりそういう人は「近年」生まれていないようです。
いまや国民的アニメーション映画となったスタジオジブリの作品。
それぞれがそれぞれに思いを持っているので(賞賛 or アンチ含めて)、
飲み会なんかでジブリ映画について誰かが何かいうと、
そのあと小一時間ぐらいは盛り上がれる便利な代物ですよね。
芸術的な手腕はもちろん、いまや商業化にも十二分に成功しているジブリ映画。
その立役者は、といわれると、これもまた数多の思惑が交錯するところですが(正直面倒くさい)、
この人の名前なくしては、語れないでしょうというのは満場一致なはず。
宮崎駿
彼の作る映画はもちろん僕も大好きで、彼の紡ぐ物語も大好きです。
今回この映画を観るにあたって僕の念頭にあったのは
「宮崎駿の目に現代はどう映っているのか」
「宮崎駿の目から提示される解決策はなんなのか」
のふたつでした。
彼の映画を見る時にこんな考え方をするのはこれが初めてでした。
いろんな映画の感想を僕が口にしだすとそれを聞いた大半の人は
「それって考え過ぎじゃない?」「もっとシンプルに観たら?笑」
というような反応をします。
けれども、僕は表現者の端くれとして、
この時代を象徴するクリエイターの新作を、
ただの娯楽作品として流し観るようなことはしたくなかったのです。
ということで、感想。
意図的に「ぶっ飛ばされた」感
映画は冒頭、穏やかな田舎の風景の描写から始まります。
主人公堀越二郎の生家の情景と周りの山々や畑、青い空、緑。
カットは変わって畳敷きの部屋、蚊帳の中に仲良く昼寝をする兄妹。
二郎少年の穏やかな寝顔のアップから、画面は切り替わって屋根の上へ。
屋根の端には鳥の翼を持った小型飛行機。そこに乗り込む二郎少年。
エンジンをかけると、固定された土台から不思議なまでにふわりと浮かび上がる機体。
「あれ、こんなにファンタジックな映画だったっけこれ」
と思いながら観進めます。
青空を横切り町の娘に手を振り橋桁の下を飛び抜ける描写はさながらポルコ・ロッソ。
やがて上空に現れる不穏な巨大戦艦はラピュタのゴリアテのよう。
そこから放たれる爆弾はハウルに登場した魔法にかかった奇妙な生き物にそっくり。
空中で崩壊する二郎の乗った機体、落下する二郎。
そして蚊帳の下で目を覚ます二郎の驚いた表情。
劇中を通してこの作品では、意図的に夢の描写と現実の描写との境目が
存在しないような演出がとられています。
夢の世界の象徴とも言えるカプローニのセリフに、こんなものがあります。
逐語では覚えていないので大意を書けば
「この世の中、なにが夢でなにが現実なのかはわからないじゃないか」みたいなかんじ。(適当ですいません。DVD出たら正確に引用します。)
ついさっきまで現実で進んでいた物語が、ある瞬間突然に
(カプローニの登場とか、草原の登場とか、イタリア国旗色の飛行機によって)
夢の世界へと繋がっていく。
観客は時としてその推移の唐突さに置いていかれることがあるくらい。
さらに全編を通して、時間の経過が省略されます。
幼少期の二郎から列車に乗った大学生の二郎へ。
関東大震災直後の暗雲立ちこめる東京の空の下から、復興が進んだ2年後へ。
訪ねてきた妹加代を船着き場までおくる風景から、就職のため名古屋へ向かう列車内へ。
初めての大仕事の成功の予感から挫折と失敗の傷心を抱えた高原ホテルの風景へ。
零戦のプロトタイプ的な飛行機の成功から終戦後のエピローグへ。
映画の場面転換には数多くの手法があり、それはすでに計算され尽くされた伝統として、
一種のスタイルとして、映画人のイロハのように継承されいています。
そういったトランジションの目的は、
1、時間の経過や場面の変化を仮に切り取ったとしても、
2、その間になにが起きたのか、どれくらいの時間が経ったのかを
3、観客にしっかりと理解させる
ことに尽きるのです。
しかし本作では、バッサバッサと時間が切り取られ、
その継ぎ目は分離されており、観客に親切どころか、
観客を瞬時に全く違う時間空間へと出し抜けに押し出します。
この2つの手法にはどんな効果があるのでしょうか。
答えは簡単です。
観客に、
・夢と現実との境目を混同させ、
・時間の確かな経過に対する安心を剥奪し、
・「ぶっ飛ばされた感」を感じさせる
ことができます。
・夢と現実を同時的に生きる青年
の姿を描きながら、
・本来あるべきはずの苦悩や葛藤により成長する姿
を隠すことに成功しています。
この物語は、つまるところ天才のお話です。
天才的な才能と情熱を持って生まれた設計士堀越二郎が
自らの理想を具現化するまでの過程が描かれています。
天才とは、いつも夢をみているような人間です。
常人には想像もつかない夢を、つねに頭の中に持っている人物です。
だから、天才堀越にとっては夢も現実もフラットな世界なのです。
もしそこに大衆映画的な「夢見る姿」を描写をするとしたら、
つまり、「ハイここでカット!こっからは夢。で次の電話の音が合図で現実〜」
みたいなお決まりのトランジションを流用してしまうと、
二郎の天才性や発想の柔軟さが表現しきれなくなってしまうのです。
また、普通ならば商業映画にとって重要な「主人公の苦悩とそれによる成長」というモチーフが
巧みに観客の目の届かない「画面の外」へ持ち出されているのにも理由があります。
主人公の苦悩は、どんなヒーローや完全無比の美女でも
“私たちと変わらない悩みや葛藤を抱えているのだ”という姿を見せて
観客から映画への共感を得るために描かれます。
しかし堀越二郎の悩みや苦悩は、理想にたどり着く過程に存在する
仮説とその検証という必要なサイクルでしかありません。
試験機の失敗に確かに落ち込みはしたでしょうが、彼は紙ヒコーキを作り
エンジニア用の航空雑誌に読みふけり、失敗の場面を脳内再生し続けます。
そこに「なんであんなに頑張ったのにダメなんだ」的お涙頂戴の雰囲気はみじんも感じられません。
戦士の休息といった静けさで、草軽ホテルでの情景が映し出されます。
彼の心情は潔いまでに静謐としています。
彼の苦悩は僕らの苦悩とは違うのです。
天才の苦悩は凡人の苦悩とは違うのです。
だから、その苦悩をあえてグロテスクに描写したとして、
観客の共感はもしかしたら生じにくいのかもしれません。
ならば映す必要もなかろうと。
過ぎること消化されることがあまりにも明白な苦悩は、
もはや苦悩とは呼ばないのです。
夢と現実、イメージとリアル、そして時間の経過さえ縦横無尽にバシバシと飛び回る堀越二郎の魂。
そのエネルギーとスピード感を観客に疑似体験させるための手法、とでもいいましょうか。
ただこれにより本作は、日本の商業映画には珍しいまでに
穏やかな語り口でありながらもビリビリとした「緊張感」を持った作品になっています。
まっさらで率直なまでのロマン
本作公開前のさまざまなプロモーションの中で、
この映画は
「戦争をモチーフにしているけれど戦争を賞賛も否定もしていないしジブリ作品だけど子供向けではないよ」
ということがさんざん繰り返されていたような気がします。
宮崎駿が「俺のやりたいことをやりたいようにやる、それでいいってんだからあとは知らん」と
鈴木敏夫プロデューサーに創作物が生む問題を丸投げしてるような印象です。
そういう意味でこの映画で語られるすべてはすなわち、
宮崎駿の語ることだと解釈してもいいと僕は考えます。
それも、嘘偽りなく、胸の内を率直に言い表した言葉だと。
この映画で飛行機は
「戦争で人を殺すための道具」として描かれながらも
「美しい夢」という役割も与えられます。
エンジニアたちは
「俺たちは武器商人じゃない、美しい飛行機を作りたいだけだ」
といって新しい小型機のための線を引き続けます。
自分の為したことが誰かを傷つけるかもしれない恐怖は誰もが持っています。
彼が死んだのは、私が言ったあの一言が原因かもしれない。あの社長が死んだのは、僕があの金を取り立てたからかもしれない。
世間に自殺が増加しているのは、俺の作ったあの作品の影響もあるのかもしれない。
クリエイターであらずとも、生きている私たちは誰だって
静かに考えてみるとそういう不安と恐怖が隣に立っていると気づくでしょう。
ただ堀越二郎=宮崎駿はその恐怖さえも乗り越えています。
美しい理想の飛行機を作ること、その創作への賛美が全編を貫いています。
堀越は一度たりとも「僕は間違っているのだろうか」と口にはしません。
聡明すぎる頭で、戦争が迫りくるその足音は確実に理解しているはずだし、
自分の作った飛行機がどこかの町を焼く光景も鮮明に見えているはず。
それでも新しい飛行機を作り続け、新しい技術を使い続け、ついには
死への到着が約束されたコックピットを持つ美しい飛行機を作り上げます。
生み出されたものが生み出す問題が善であるのか悪であるのかは、この映画では問われません。
宮崎駿はその点を主張の土俵に決して上げません。
ただ、生み出されるものの美しさと、生み出したいという欲求への賛美が描かれます。
しかしこれは、日本のクリエイターへの応援でも、
これからの世界を生きる若者へのメッセージでもありません。決して。
「ただ、僕はそうだったのだ、それだけだ」ということを言っているだけです。
その点に於いて、とても気持ちの良い映画と言えます。
航空映画としての風立ちぬは、
何かを生み出すことへの強い執着心とその賛美を
混じり気のない純粋さでストレートに宣言しています。
美しいものへの憧れを、純粋培養したロマンの塊です。
では、そのロマンを抱く胸は、本当に「創作物の生み出す恐怖」を
乗り越えているのでしょうか。
乗り越える、という表現が不適切なのかもしれません。
僕には、堀越二郎=宮崎駿はその恐怖を「飲み込んだ」のだなと感じられました。
堀越の賛美する美しき飛行機は、パイロットを必ず死の足元へと送り届けます。
宮崎の賛美する美しき人生は、その主人公を必ず死の足元へと送り届けます。
この対比、ひとつの暴論かとも思いますが、僕はそうは思いません。
クリエイターの作品に本人の人生が反映されないことなど、あるでしょうか。
宮崎駿の過去の作品はどれも
「この世界は最善ではないが、その中でも必死に生きる」
ということを主張し続けてきています。
死を飲み込んだ末の生、それが宮崎駿の紡ぐ美しい物語であり、
純粋培養された彼のロマンなのであります。
宇野氏曰く「3周ぐらい回って、ストレートな男根主義」
評論家の宇野常寛氏とアニメ監督の富野由悠季さんが
NHKのラジオで風立ちぬのことを話題にしたことがあったようです。
シャア専用ニュース 富野由悠季、宮崎駿監督最新作「風立ちぬ」を絶賛!
でも「崖の上のポニョ」「千と千尋の神隠し」は大嫌いと告白!
http://p.tl/QkRl
その中で宇野さんが
「だって、あれ(「風立ちぬ」)って、3周ぐらい回って、 ストレートな男根主義みたいになってませんか?」とおっしゃってますが、まさしくその通りだと僕も思います。
本編に登場するヒロインは2人だと僕は考えます。
堀越二郎の妻となる里見菜穂子
堀越二郎の妹である堀越加代
菜穂子は堀越に一度困難を助けられ、それ以降彼のことを夢見つづけています。
堀越の休暇先のホテルで再会をし、恋に落ち思いを育み結婚をします。
結核を患った身体で夫を献身的に支え、夫の成功を見届けてサナトリウムに戻り死にます。
儚さの象徴、風の象徴、奥ゆかしき日本女性の美です。
加代は活発なイメージがあります。幼少期から兄のあとをついてまわり、
兄に節介を焼きます(赤チン塗りましょう)。
医学を志し大学を出、医者になります。
両親の代わりに兄の元へひとりで顔を出します。
菜穂子の身体を気遣い、二郎への反対意見をまっすぐに口に出します。
そしてふたりに共通して、どちらも無条件に二郎を愛しています。
天才設計士として鳴り物入りで三菱に入った二郎は、
それでも実用的な飛行機の単独設計の成功を見ず、一時高原のホテルに休暇をとります。
そこに来た時はどうやら「落ち込んだ様子」でしたが、
菜穂子との再会と恋によりみるみるうちに回復をします。
結核を患い身体の弱い菜穂子は二郎の妻となった時、病気の克服を誓います。
ただ、病は治らず一度喀血し、高山のサナトリウムに入ることを決意します。
それも、二郎と一緒にいるためという目的です。
また、二郎のプロジェクトが難航していることを手紙で読み取ると
自らの意志で山を下り、名古屋の二郎の元まで駆けつけます。病気をおして。
二郎の上司に仲人をお願いして結婚を果たした初夜に、
気遣う二郎を制して身体を捧げます。
以降、夜遅くまで働く二郎を待ち、帰着時には寝床から起き上がり世話を焼き、
あるいは夜を徹して作業する二郎を見守り、手を握らせます。
本作品がこれまでのジブリ作品と異なることはいくつかありますが、
そのうちのひとつ、大きな変化に「キスシーンが多い」ことが挙げられます。
二郎・菜穂子夫妻はことあるごとに口づけをかわし、抱擁し、愛撫しあいます。
体温の交換を意図的に画面に描いている
のです。
無条件の愛による承認と体温の交換
これこそが二郎を支え、二郎が美しい飛行機を作り続ける原動力となっていきます。
果たして、美しい飛行機が出来上がったその日の、
試験飛行に二郎が家を出たその朝、菜穂子は誰にも告げずにサナトリウムへひとりで帰ります。
仕事を抱えた二郎はそこを簡単に訪れることはできず、
ともすればそれがふたりの永遠の別れになるかもしれないということは
周りの誰もが、そして当人である2人は痛いほど理解しているはずです。
「戦争のための殺戮の道具」を意図せずとも作っているという事実は、
二郎のなかに一種の焦燥感を生じさせます。
その焦燥感を拭い、理想へ突き進む後押しになる存在はいくつかみられます。
けれど、菜穂子以上のものはないのではと思わせるように、映画は描かれています。
もう一度書きます。
そしてこれこそがまさしく、宇野氏が指摘する「男根主義」であり、
僕の感じた「肥大したマチズモ」であります。
生きるためのその根拠とはなにか。
それは人類誕生以来、多くの芸術がテーマにしてきた命題であります。
その答えとして宮崎駿は、「マチズモが満たされることによる救済」を提示しました。
というか、してきました。これまでも。
その流れが今作品も踏襲されたかたちとなります。
恋愛映画としての風立ちぬは、無償の愛によって救済される男の魂を描いているといえます。
ただ、この点、面白い現象なのですが、
この菜穂子像を、あるいは風立ちぬに登場する女性キャラクターの昭和的女性像を
「理想的な女性だ」と捉える女性がいるというのです。
宮崎駿の理想の女性としての菜穂子像は、現代社会の若い女性にとっても
受け入れられる余地が十二分にあるということですね。
僕ら男性としては、それほど嬉しいことはありませんが、
とはいえ、それこそ理想と掲げ続けていくと、社会システムが、
あるいは日本の想像力がヘドロ化していく危険性もあるなと、なんとなく思います。
ここはちょっとデリケートかもしれないので、グレーにしてみました。笑
宮崎駿は僕らから梯子を取り上げた
おそらくは、宮崎駿のことなので、
社会への提言とか、今後僕らはどうやって生きていったらいいのかという
彼なりの答えを与えてくれるのではないかと思って映画を観ました。
そして、いままで書いたことから読み解くと大方
すべてを打ち込むほどの美しい理想と無条件の愛を得なさい
というのが、彼の主張だと一旦は思わされます。でも違うのです。
宮崎駿は本編のほとんどを通して、美しい飛行機を作るという堀越二郎の
クリエイティビティとその欲求を最大限に賞賛し続けてきました。
加えて、堀越を献身的に支える菜穂子という存在をわざわざ別の原作から登場させ、
無条件の愛による承認と体温の交換による天才堀越の孤独性の救済を見せました。
本編クライマックス、終わりまで10分強の段階で、宮崎駿は菜穂子を
堀越二郎の人生から退場させます。
二郎は試験飛行場でその事実をなにかしらの虫の声で察知し空を見上げ立ちすくみます。
そして続くエピローグでは夢の場面に転換され、カプローニが登場します。
時間はおそらく終戦後に飛躍していて、その時点ではすでに菜穂子は亡き人となっています。
一種の懺悔を口にした二郎をカプローニは「君のゼロは美しい」といって受け止め、
そこにイメージとしての菜穂子が登場します。
笑顔の菜穂子は二郎に対し「生きて」と言葉を投げかけ、空中に溶けて消えます。
抱き合うこともなく、口づけを交わすこともなく、笑顔とともに霧散するのです。
二郎は彼女の言葉を受け止め、そして生きることを決意します・・・?
果たして二郎は、今後どうやって生きていくのでしょうか?
映画の終わり方も唐突であっけない。
この10年の二郎の仕事をカプローニは会話で振り返りながら、
次にやることの前に私のうちに寄っていかないかねと持ちかける。
いいワインがあるんだ、といって。
「はい」と答えた二郎は、草原の丘を下っていくカプローニのあとを追う。
画面を切り取る視点は丘の最上地点と同高度ぐらいに定点で据えられていて、
ふたりは画面の奥へと背中を見せて歩きながら消えていく。
坂を降りるふたりの姿は、観客から観ると、丘の稜線に徐々に沈み込んでいくように見える。
二郎は坂を下りながら空を見上げる。
空を描き続けてきた映画のラストシーンが地面に沈んで消えていくカットで終わる僕にとっては、これは衝撃的な終わり方でした。
菜穂子の言葉とそれを受けて生きつづけることを決意した二郎を、
観客である僕らはある程度感動を伴った肯定的な視線で見届けるのですが、
宮崎駿はその主人公を、「地面に沈めた」のです。なんというカットアウト。
そこで主題歌の「ひこうき雲」が流れるのですが、
僕はその曲を、極度の混乱のうちに聞きました。
宮崎駿は僕たちへの答えとして、理想の追求と無償の愛を提示した、とばかり思っていました。
そして、それを批判的に受け止めていました。
にもかかわらず、そんな僕を取り残して宮崎駿は唐突に、
・観客と二郎から菜穂子を象徴的に奪い・それに感動している観客から二郎をも暗示的に奪った
のです。
宮崎駿が提示する(と僕が途中まで思い込んでいた)答えを信じるものは、
理想と愛の大切さを胸に映画館をあとにすることが出来たでしょうし、
それを批判的に観る僕みたいなものは、マチズモ以外での救済とは何かとか、
クリエイションの孕む問題とそれをあぶり出す時代の構造に思いを馳せながら
席を立つことができたはずです。
なのにもかかわらず。
宮崎駿が菜穂子を霧散させ、二郎を夢の象徴であるカプローニと共に地面に沈めた瞬間、
僕は、それまで僕が読み取っていたこの映画のメッセージがすべて
撤回されたような感覚に陥ったのです。
宮崎駿賛美なりアンチ宮崎駿なりのそれぞれの立場からそれぞれの答えを受け取っていたのに、
その答えへたどり着くための梯子を、宮崎駿はラストシーンで僕らから奪い取ったのです。
まさしく衝撃でした。
宮崎駿は、現実に生きている二郎と夢の象徴であるカプローニを、
地面に沈めることによって画面の外へと排除しました。
残ったのは、夢の世界に広がる雄大な草原のみ。フィナーレ。
それまで紡がれてきた理想の美を追い求める欲求の賛美と、
無償の愛による救済と、その消失としての死を飲み込んだ故の「生きる」という答えを握ったまま、
堀越二郎は僕たちの目の前から沈み消えたのです。
宮崎駿は、
クリエイティビティの賛美=自己賞賛もマチズモ的な救済も
死を飲み込むがゆえの生きる選択も
どれも肯定せず、否定もせず、映画に幕を引き、夢の風景だけを観客の眼前に残し、
そしてそこにユーミンの「ひこうき雲」を流したのです。
というわけで、風立ちぬを見終わったあと、結構僕は打ち拉がれました。
とてもエキサイティングで楽しかったけれど、狸爺にしてやられたような気分になりました。
ただ、映画を通して提示されている
これから僕らはどうやって生きていったらいいのだろうか
についての答えとして、ラストシーンで否定されたもの以外の解が存在していたようにも
いま改めて考えれば思います。
つまりそれは、
二郎と本庄の友情二郎と黒川・服部の相互尊敬
二郎とカストルプやカプローニのような民族と時空を越えた交遊
これらの「恋愛感情や家族の繋がりとは別の」交際が二郎にあたえる
ひとときのオアシス的な癒しが、とても肯定的に描かれていた。
愛するふたりとはつまり、閉じられた関係です。
無償の愛は持ち寄りあうと、互いの存在を補完してしまう。
ただ、上の3つのような繋がりは、とてもオープンな関係です。
本当の恋愛でもなく、本当の家族でもなく、
「疑似恋愛」や「疑似家族」的なゆるやかで居心地のいい繋がり。
そういったものがおそらく、霧散した菜穂子を見送り、
「夢」とともに地平線に沈み込んだ二郎が現実にもどったとき、
彼を支え癒していくのではないかと、僕は考えているのです。
yy
0 件のコメント:
コメントを投稿