2013年6月6日木曜日

6/6 音楽家の想像力 〜0.はじめに〜


ここ一ヶ月くらいずっと考えていることがあります。
「日本でクラシックに携わる僕らは、今後どうやって喰ってったらいいのかな」
ということです。

もちろん、この問題については声楽の道を志してから、具体でも抽象でも
ずっと頭の中にあった問題なのではありますが、
本当にどうしたらいいのかのヴィジョンらしきものがみえてきたのが
ほんの数週間前の出来事です。

そのきっかけとなった出来事はいくつかあります。

・僕がこの間の3月で大学卒業をしてフリーの肩書きになったこと
・去年から仲間と続けている"Cloud of Arts"という活動による経験が蓄積されてきたこと
・宇野常寛さんの著書を読んだこと

などなど。
細々したことをあげればきりがないのですが、
きっかけの核はおそらくこれらに集約されるのではないかと思っています。

「クラシックで喰ってくってどうしたらいいの」
の問いについては、日本に数多いるプレイヤーがそれぞれに試行錯誤して
自分なりの答えを出しています。あるいは出そうと考えています。
もう2ヶ月ほど前になるかもしれませんが、僕ら声楽家の間で
ちょっと話題になったブログ記事がありました。


 ノルマの話 その1
 ノルマの話 その2

投稿時期は今年2013年の1月のようですが、ちょっとラグを挟んで僕も読みました。

僕はこのつい2ヶ月前に大学を卒業したばかりの新米歌い手なので、
業界の現状に直面した経験があるわけではありませんが、
それでもここに語られている業界のシステムは大方真実なのだろうな
という確信を持ってこの記事を読みました。

そして、それにある種の閉塞感を抱いていた若い世代の声楽家にとっては、
一線で活躍されているテノール歌手がこういう記事を書いてくれたことが
とても心強く感じられ、まさに自分たちの心の代弁をしてくれているかのような思いで
文章を読み、URLをシェアしたのでしょう。
なので一時、僕のFBやTwitterのタイムラインには、高田さんのブログへのリンクが
毎時間のように持ち上がっていました。


ただやはり問題なのは、この記事が声楽家を中心とした声楽愛好家のコミュニティ以外には
それほど大きな影響を与えなかったということです。
声楽以外の西洋音楽に携わる若手にはもちろん、
西洋音楽に限らないミュージシャンのテリトリーや、その他クリエイター、あるいは一般大衆、そういった集団への波及効果はほとんどありませんでした。
そして、僕はこの点こそに、強い危機感を覚えました。


たとえば、文楽やアニメーションを軸とするポップカルチャーといった文化的コンテンツは
世間的な荒波に揉まれた時に、それに対する発言などがたくさん生じて、
その中でもある程度力のある文章がネットワークを介して
多くの人に読まれ影響を与えている、といった場面を目にした記憶があります。

たとえば

【雑記】文楽いじめとヒンデミット事件
http://nailsweet.jugem.jp/?eid=948

一番難しいのは「生き残ること」、大塚明夫が「声優」という職業を語る
http://gigazine.net/news/20120506-digitalcreator-machiasobi8/

「クリエーターは無報酬」秋元康のクールジャパン提案に批難殺到


こういう話題については、twitterなんかで細切れにされながら、
ある程度の議論を呼んでいた印象があります。
ただ、クラシックについての話題はそうじゃない。
拡散されないのか、あるいは拡散されても目に留まらないのか・・・

ポップカルチャーについてはほっといても常にトピックの上位にあがってくるし、
文楽については一時期の報道の過密さからか関心度が高かったのでしょう。
つまりどちらにしても「興味を持っている人が多かった」から
「あらゆる情報が溢れていて、その情報は常時更新される」ようなインターネット上でも
ある程度の存在感を持ってひとつの議論を(短期的にでも)生み出しました。
一方で僕たち(声楽家ないしクラシック愛好家)の間ではホットだった高田さんのブログが
世間的には全くと言っていいほど影響力を持たなかった。
つまり、クラシック音楽に「興味を持っている人」はごくごく少数らしい。
薄々気づいていた現実を目の当たりにした気分でした。



はたしてクラシック音楽はこれから先の時代を生き残っていけるのでしょうか。
生き残っていくとしたら、それはどのような形をとって継承されるのでしょうか。
文楽やアニメーション文化やロックミュージックは、そう多くはないとしても、
世間一般の関心をある程度集めることができています。
だから、クラシックだって同等の興味を持ってもらっているのだ、
という認識はあまりにも危ういのです。今回で証明されたのです。

世間において文楽やアニメーションは程度の差さえあれ、
“日本のお家芸だ”という自尊心を持って、
貴重なコンテンツとして受け入れられているように感じます。
伝統芸能とポップカルチャーという種別の違いから生まれる
ユーザー数の大小はもちろんありますが。

あるいは、ロックを含む商業音楽文化は娯楽やファッションとしてのアイデンティティを確立し、
若者からお年寄りまで、それぞれの世代に相応しい形態での消費が定着しています。
その市場規模が減少してきたという現実はあれど。

なのに、なぜ、クラシックはこれほどまでに世間の関心を集めないのでしょうか。
伝統芸能としてはおおよそ文楽よりも長い歴史を有し、
日本ポップカルチャーの代名詞的存在である
「新世紀エヴァンゲリオン」の劇音楽として“ベートーベンの第九”が採用され、
商業音楽よりも多くの流行歌を生み出してきたはずの、クラシック音楽が。



この「なぜ」をずっと考え続けてきたように思います。
そして、宇野常寛さんの著書「ゼロ年代の想像力」を読んだ時に気づきました。
「この本の思考プロセスはそのまま日本のクラシック音楽を捉え直すための思考に流用できる!」と。

おそらくこれから僕がこの場で書く文章は下のようなプロットになるはずです。

1 クラシックが輸入された理由〜明治維新・音楽取調掛〜
2 ステータスとしての西洋音楽〜欧化政策の中で〜
3 知的層の受け皿としての普及〜ラジオ放送開始〜
4 憧れの対象・権力を持った音楽家〜戦後高度経済成長と一億層中流〜
5 政治へのアンチテーゼとしての実力主義〜世界で活躍する日本人音楽家〜
6 ポップカルチャーの台頭〜ネットの波に取り残される〜
7 サイバー空間で活躍する音楽職人〜これからのクラシック生き残りのために〜


また、以上のプロットを推し進めた先で僕が言いたいことも先に書いちゃいます。
「日本でクラシックに携わる僕らは、今後どうやって喰ってったらいいのかな」
についての、山野靖博なりの答えです。


まずは権力主義を捨てること。そして、実力主義も捨てること。
音楽を愛する人、音楽を作る人、音楽を奏でる人、音楽環境を整える人、音楽を語る人
音楽に触れる全ての人を同じステータスに立たせること

政治的な縦の繋がりを破壊して、
ひとりひとりなにができて、何が得意で、何が苦手なのか」という人間的な視点に支えられた、横のつながりを新たに紡ぐこと。

ネット上にコミュニティをつくること。
ネット上での批判を恐れないこと。



僕がこれから語るストーリーは、僕と同世代、
つまり現在24歳前後、大学生活まっただ中の人から30代前半にかけて、
これから業界を牽引していこうとする「若手」の視点によって書かれます。
その新しい時代の担い手という立場から、
「今自分たちが立っているこの場所は、いったいどういうかたちをしているのか」を
明らかにし、「そこに立つ僕らは、これからどうやって歩いていけばいいのか」を
考えることを目指します。

若き声楽家のみなさん、若き音楽家のみなさん。
僕らは今までの音楽家と違う感性を持って現実と向き合うことを余儀なくされます。
感性を生きる表現者が、冷静に時流を読む必要を強いられる時代がやってきました。
明日の歌をうたうために、僕たちは今日考えなければならないのです。


yy


山野はほしいものがたくさんあります!





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