先日、まとまった文章を読み砕いて、自分でまとめなおすという作業をやって感じましたが
(「文化芸術の振興に関する基本的な方針(第4次方針)」を読んでみた、という話。)
人の言葉を自分のフィルターを通してアウトプットするって
めちゃめちゃ怖いことですね。
普段僕は、このブログで自分の好き勝手に思ったことを好き放題書いています。
発想者と記述者が一致しているので、どんな言葉を選ぶのかとか
どんな構成にするのかも僕自身が決めて、
言いたいことを伝えるのにふさわしいか、過不足なく伝えることができているかを
僕自身が考えることができます。
(その結果、僕の意図通りに伝わっているかどうかは
僕の力不足が大きいので別問題ですが・・・)
今回は、僕じゃない人(たち)が書いた文章を
僕が、いわば二次加工をして、書き出してみたわけです。
そうすると
- 本来の意図に沿った要約ができているのか
- 「悪意ある改変」になっていないか
みたいなことがとっても気になったのです。
元のテキストがあったときに、それを再編するとか要約するとなると
そのテキストの言いたいことをしっかり掬い上げて
より受け入れやすい形に加工するなり、核の部分だけに凝縮するなりして
アウトプットするわけですけど、
その段階で、本当にそのテキストの主張をちゃんとピックアップできてるのか、とか
枝葉をそぎ落としたりより受け入れやすく加工したりしてるけど
その作業によって元の主張を改悪していないか、とか
そんなことを考えるのですね。
というか、考えるどころじゃなくて、半分恐怖みたいなものも感じます。
元のテキストの意図を損なわずにいたかったら、
もっとも簡単なのは「引用しちゃう」ということですけど、
引用が多すぎると、読むのが億劫になったりします。
僕自身そうですけど、ある人の本を読んでいて
そのなかにたくさん引用が出てくると、その原文の大切さはわかるけれど
「いやいや、読みたいのは原文じゃなくてあなたの考えですから!」と
ちょっとだけイライラすることがあります。
でも、自分でやってみてわかりましたけど、
文筆家や評論家や、あるいは論文を書く場合って
「とりあげた原文の本質を損なっていないか」という恐怖が、
かならずついてまわるんでしょうね。
だって、悪意を持って原文の意図を捻じ曲げることは
いとも簡単だと感じましたから、実際。
元のテキストの言い回しや語句を利用して、それは変えずに
けれど抜き出す順番を変えたり、取り上げる範囲を調整したりすると
あっというまに別の意図(二次編集者の意図)をのっけることができます。
そこに悪意を込めようとか、善意を込めようとか、自由自在です。
世の中に出回っているニュースや評論、雑誌の対談やインタビュー、
ネットの記事、ありとあらゆる文章や情報は、
「編集者の手によって実際のコンテキストとは異なった意図がのせられてしまう」
という危険性に常にさらされているのだなと、改めて実感しました。
同時に、そういう怖ろしさと常に対峙しながら
それでも心ある文章を書こうとしている新旧の作家さんや評論家さんの凄さも
感じることができました。
僕の敬愛する哲学者の池田晶子さんが、小林秀雄さんの評論を指して
「愛のある評論だ。評論には対象に寄り添う愛がなければいけない。」
と言っていますが、
愛のある評論、愛のある批評、愛のある報道。
そういう情報が世界に溢れればいいのにな。
0 件のコメント:
コメントを投稿