2015年5月10日日曜日

地方には受け皿がないという事実が切ない、という話。

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思考実験です。


地方の国立大学の教育学部に、とても才能のある学生が入学してきました。
専攻は音楽で、実技はピアノです。

中学時代からピアノを習い始めたという彼女はピアニストの常識からすればスタートが遅いですが、
それを補っても有り余る才能を感じさせます。

音色は美しく指もしっかり動き、未発達ながら音楽性も感じさせます。
より細かなテクニックや音楽作りはいまのところまだ足りていませんが、
逆を言えばそれをこれからきっちりと学ぶことができたならば、
世の中に溢れるクラシックピアニストの中でも勝負ができる可能性を秘めています。
あるいは、きちんとした勉強を経たのち、彼女の出身地であるその地方都市に留まれば、
間違いなくその地域で屈指のピアニストになれます。


さて、その大学の音楽教育を担当する教授はヴァイオリニストでした。
入学してきた彼女の素晴らしい才能には、もちろん最初のレッスンのときに気づきました。
荒削りだけれど確かな才能を感じさせる演奏。
まだまだ成長の余地のある音楽性。

教授もピアノを弾くことができますが、あくまでも専門はヴァイオリンです。

彼女の才能を開花させるには、鍵盤をより効率的に弾くための
専門的な知識に裏付けされた打鍵や運指の練習が必要です。
また、各時代や各作曲家のスタイルをしっかりと身につけられる
アカデミックな教育も必要かもしれません。

けれど、教授自身では上のどちらの技術も、最大限に教えることはできません。
彼女自身、ゆくゆくは音楽で生計を立てていきたいと考えているようです。




1、彼女はこれからどのように勉強を続けていけばいいでしょうか。

2、地方大学の教育学部音楽専攻に携わる教授として、
   彼女にしてあげられる最大限の教育とは一体なんでしょうか。


      ☆ ☆ ☆


東京にいると恵まれているなーと思うのは、
どんなレベルの学習者でも、それに見合った先生を見つけることができるという点です。
超初心者でも超上級者でも、趣味で楽しむ程度にレッスンを受けたいという人でも、
より専門的なレッスンを受けたいという人でも、その受け皿が必ずあります。
細分化されたレパートリーに対応する専門的な先生ももちろんいますし、
たとえば歌で言えば、発声のプロフェッショナル、発音のプロフェッショナル、
音楽作りのプロフェッショナルと、それぞれの異なった技術に対するレッスンも受けられます。

演奏家になろうと思ったら、そういうレッスンを受けて、
専門的な知識と技術を身につけていくことが必要です。特にクラシックでは。

けれど、地方にはそこまで目の細かい受け皿はほぼ存在しません。
優秀な先生はどこの地方にもいますが、その人がすべての分野の専門技術まで
緻密に教えられるというパターンは皆無といってもいいのではないでしょうか。


上の例の場合、彼女が本当に演奏家になりたいのならば、
しかるべきレッスンを受けられる先生のところへ通い始めるのがいいと思いますし、
中退をするのか学部を出てからなのかは選択するとしても、
東京の音楽大学なり、海外に留学するなり、より専門的な学ぶ場へ身を移した方がいいように思えます。

教授にしても、まずは彼女の天性の才能を「壊さない」ようにできる限りの知識を与え、
あるいは自分の人脈から適合する専門教師を紹介してあげたりしてもいいかもしれません。



なんで僕がこんなことを書いているかというと、
何かをやりたいと望む若者がいたとしても
地方にはその受け皿がないことが多い
という事実に、とてもせつなさを覚えるからです。


すべての地方が東京のようになるべきだ、なんて微塵も思いませんが
なにくそと東京や世界へ飛び出さなければ学べないのはしょうがない、のではなく
たとえ最終的に都市部や海外へ出て経験を積むことが必要であっても、
そこへ至るブリッジ機能を、地方都市も持っていたいよねとは思うのです。

大概、なにくそと外へ出て行った若者は、地元に帰ってきませんし。
そんなのただの資源流出です。もったいない。







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