2013年7月17日水曜日

7/17 【映画感想】ダークナイト ライジング



ダークナイト ライジング
監督 クリストファー・ノーラン
音楽 ハンス・ジマー
出演 クリスチャン・ベール
   マイケル・ケイン
   ゲイリー・オールドマン
   アン・ハサウェイ
   トム・ハーディ
   マリオン・コティヤール
   ジョゼフ・ゴードン=レヴィット

宇野常寛著「原子爆弾とジョーカーなき世界」に多大な影響を受けています。
以下、ネタバレありです。


映画を意識して見始めたのはおそらく中学時代で、
そのころからしばらくはラブコメとヒューマンストーリーをひたすら観ていた。
ホラーは怖いのが嫌だし、コメディは時間の無駄だと思ってしまうし、
戦争ものはなんとなく好きになれなかった。
いまはそんなことはなくて、気になったものはジャンル関係なく観ることにしている。

アメコミヒーローもの、というのも長らくアレルギーの対象だった。
アレルギー“ぶっていた”が正しいのかもしれない。
僕は、幼さ特有のあの奇妙なプライドで、ポップなカルチャーを鼻で笑ってきたような
ところがある。いまはそんなことはないのだけれど。
そういった過去をとても恥じているし、反省もしている。



この映画を観たのは昨日なのだが、その他にもいくつかブルーレイを借りていて、
さて今日は何を観ようかなと昼から考えていたのだ。
そうTweetしたところ、「ライジング長かったけどなかなか見応えありましたよ!」
というリプライが来た。

見終わってみるとなるほど、“長かった”し“見応えがあった”。

前作ダークナイトで愉快犯ジョーカーに翻弄されたバットマンは、
ゴッサムシティの平和を守るために意図して濡れ衣を着、マスクを脱いでいる。
ウェインは屋敷に隠遁し8年の間、公の場に姿を現していない。
街は「デント法」によって組織犯罪が一掃され平和が保たれており、
警察組織上層部は犯罪抑止力としてその機能を失っている(と当初描写される)。
そのなかでゴードンは捜査に意欲的な熱心な警官であり、
それゆえに新しい街では無用の長物と疎まれている。(辞令が決定している)


バットマンの持ち得る正義とは、絶対正義ではない。
悪がいるからこそウェインはマスクをかぶることを自らに“許すことが出来る”。
悪がなければウェインはバットマンにはなれない。
たとえウェイン自身がバットマンになること自体を「望んでいたとしても」だ。

その点ゴッサムシティは、あるいは近代的に発展した都市は、
もっといえば人間の集まるところには、かならず悪がある。
悪は人間の営みにおける澱のようなものだ。それが正しいか否かは別にして。

気の抜けた(幸せな)生活はキャットウーマンの登場により突如乱される。
彼女の些細な窃盗をきっかけに、その裏にある大きな陰謀をウェインは感知する。
ものすごい嗅覚としか言いようがないが、こういう見方も出来る。
人間は誰しも、心の底で望んでいるものしか見つけられないのだ。


ゴッサムシティを緻密な計画と凶悪な暴力で半ば占拠するのはベイン。
傭兵としてCIAにもマークされる危険人物。
あまりにも強靭な肉体、なにをも恐れぬ知性、過去の強烈なトラウマ。
バットマンの敵役としてふさわしい設定だ。
けれどなにかがおかしい、どうもワクワクしない。
悪役にワクワクする、というのもおかしな話かもしれないが、
前作とどうしても比較してしまう。ジョーカーとくらべてしまうのだ。

ライジングにジョーカーは出てこない。ノーランはその存在を消した。
宇野氏はそれを「ジョーカーなき」と言った。

ジョーカーは単純だった。純粋だった。
その存在自体が悪を求めていたし、その存在自体が悪だった。
過去も未来も現在も持たない空っぽの男の内部は、深い闇で満たされていた。
目的のない破壊こそジョーカーの目的だったし、それに僕らは衝撃を受けたのだ。

ベインは自らを「必要悪」と呼ぶ。
つまりゴッサムシティの機能としての自己を強く認識している。
そしてそれは彼自身の発想ではない。おそらく。

前作ダークナイトの衝撃があまりにも強かったばかりに、
前作とライジングの、ジョーカーとベインの比較から抜け出せない。

ジョーカーはひとりだった。どこまでもひとりだった。
部下は巧みに利用しつつも、それはあくまでも駒だった。
ベインも同じだ。部下を巧みに支配し利用し、必要がなくなれば容赦なく殺す。
彼の支配体系は完璧で、ベインの部下は命令を破ることはないし、
口を割るくらいならば死を選ぶ。

しかし、ベインはひとりではなかった。愛するものがいた。ミランダ。

ベインの悪の根拠は愛だ。果たされないマチズモの代替行為だ。
そこに語られる悪の絶望性には、はっきりとした底がある。
ジョーカーのそれには底がない。深遠なる底なしの井戸。
投げ入れられた小石は落ち続けるしかない。永遠の落下。

ベインもミランダも、奈落より這い上がった人物だ。
彼らの信念は、つまり彼らの破壊は、過去のトラウマという“底”を持っている。
そして、それはバットマンも同じ。
さらに、果たされなかったマチズモの代替行為としての暴力の使用という点でも、
バットマンはベイン・ミランダと同じ輪の中にいる。
片方は正義として、もう片方は必要悪として。



ゴッサムシティはブルース・ウェインの「夢」なのではないかと思う。
そこには生きる目的がある、存在儀がある。守るべきものがあり、滅ぼすべきものがある。
そこではマスクを被ることで、孤児であるウェインはヒーローへと変身できる。
ヒーローへの変身願望を巧みに覆い隠してくれる、都合のいい悪の存在もある。
自己嫌悪さえもバットマンを批判する一部の市民や市警が代替装置として機能している。

夢の構造を利用したストーリテリングは、クリストファー・ノーランの2010年の作品、
「インセプション」にて直接的に使用されている。

「インセプション」の主人公たちは、他人の夢に“潜る”ことによって記憶を書き換える
特殊なスパイ集団だ。
夢の中ではイマジネーションによってありとあらゆることが起こりうる。
夢に潜っている間は現実世界よりも時間が拡大され、その層が多重になっていくにつれて
倍々以上のスケールで時間は拡大されていく。
夢の中での数時間は、現実に於いての数秒でしかなく、多重的な夢の中での数十年は、
現実に於いての数時間にしかならない。
夢の中にいる間はスーパーヒーロー並な戦闘が出来るが、夢の中での死はイコール
現実世界に於いての死でもある。

バットマンのゴッサムシティは「夢」である。
夢のスタート地点はおそらく、ブルース・ウェインの父の死だ。
そこからウェインは成長を止める。もしくは成長スピードを無限に拡大させる。
夢の中で彼はそのイマジネーションと“財力”を使って、
ありとあらゆる兵器・武器を製造していく。
夢の中にいるかぎり、ウェインの心はトラウマの地点に固定される。
そこに発展はなく、つまり生きながら仮想の死を送ることとなる。
ウェインの肉体的ダメージはすなわちバットマンのダメージなのであり、
バットマンの影に守られたウェインは、“ウェイン自身の痛み”を感じることはない。
ただ、「インセプション」との違いは、夢と現実に於いての死の関係である。
ウェインの見る夢、つまりバットマンとしての死はすなわちウェインの死であるが、
ウェインの死はバットマンの死には直結しない。
劇中にウェインが、バットマンが語る通り、
「マスクをかぶれば誰でもバットマンになれる」のだ。

ウェインが夢をみることをやめるタイミングは2度あった。
というか、そのチャンスを与える人物は2人いた。
ひとりはレイチェル。ウェインの愛した女性であり、
前作ダークナイトで命を奪われている。

もうひとりはウェイン家の執事アルフレッド。
前作までは苦言を呈しウェインの身を案じながらも、
彼のために情報収集をしたり作業補助をしていた彼は本作で、
ヒーローゲームをリタイアして普通に暮らす幸せの象徴として役割を与えられている。
ウェインが彼の心の平穏を選択すること、すなわちウェインの目覚めであった。
レイチェルへの恋により動き出したウェインの心は、彼女の死で再び凍り付いた。
その理由を「果たされない愛」と解釈したアルフレッドは、
再びヒーローゲームへ足を踏み入れようとするウェインにむかって、真実を告げる。
愛は「果たされなかった」のではなく、「存在しなかった」のだと。
これは一種のショック療法であり、ウェインにウェイン自身の痛みを与えさせたかったのだろう。
しかしウェインは、その痛みをかみしめることよりも、
さらなる夢の深みに潜ることを選んだ。
その瞬間本編からアルフレッドは退場させられる。

愛の物語の選択による覚醒ではなく、アルフレッドによる疑似家族的繋がりの選択を
ノーランは救済のひとつの方法として登場させた。
これは「インセプション」でも使用されていて(コブとサイトー)、
それを宇野氏は「ボーイズラブ」的な救済、と形容している。



ウェインは夢を見続け、ミランダとベインは意志を果たそうとし、
クリーンな核エネルギーは殺人的な核兵器につくりかえられ、
ゴッサムシティを走り回っている。

ベインは巧みに市民を煽動するが、それはとても客観的に描かれており
地下に埋められた警官たちは不思議とその士気を落とすことはない。
(映画冒頭ではその機能の停止具合が強調されていたのに)。
ゴードンはその英知と動物的勘で窮地を逃れつづけ事件の核心に迫り、
警察組織の不自由性を痛いくらいに感じながらバットマンへの憧れを強く抱き続ける
若き警官ブレイクはゴッサムの平和を正義を疑いながらグレーな地面へと自ら近づく。
どれも、いままで僕らが慣れ親しんできた物語の手法だ。
愛が語られ、正義が語られ、正義の欺瞞が語られ、悪を突き動かす愛が語られる。



前作ダークナイトでは、それらの月並みな物語はすべてその土台を取り払われた。
ただひとり、ジョーカーという異常者の存在によって。
愛も正義も悪も、すべてが空っぽであると目の前に突きつけられた。
ジョーカーの繰り出す暴力は、だからこそ鮮やかに記憶に焼き付き、
だからこそ僕らに新しいエネルギーを感じさせた。
世界は空っぽの闇に塗りつぶされた。

ジョーカーの退場によってふたたび世界に陽がのぼったいま、
そこに語られるのは旧式然とした、使い古された物語の手法だった。
僕たちに馴染みの、安心する、心地よい、偉大なる小さな物語だ。
その点で、僕たちはこの長大な作品を“心地よく”“見応えを感じて”鑑賞することができる。
でもそこには、前作ほどの高揚感は伴われない。
がらんとした部屋に響く自分の壊れた心臓の音を聞くような、そういう体験はできない。

それはそれでいいのだとおもう。
ウェインは自らのルールに従って核爆弾を抱えたままゴッサムシティを飛び出し、
死の選択を持ってヒーローゲームという夢からドロップアウトした。
エピローグで映されるウェインとキャットウーマンだったセリーナの風景は、
あるいは死後の世界なのかもしれないし、もしくは新しい夢なのかもしれない。
けれど、ゴッサムシティは消えない。
トラウマを抱え、達成されないマチズモにフラストレーションを感じるヒロイストは
どの都市にも、どの時代にも、必ず現れる。
それが人間の営みであり、ゴッサムシティの機能である。

クリストファー・ノーランのバットマンは愛の物語として幕を閉じた。
あるいはこれがスタートだといいたいのかもしれない。rises.

「マン・オブ・スティール」をみなきゃならないな、と思っている。
くわえて、「インソムニア」のサスペンス手法を考察して、
近年のクリストファー・ノーランのアメコミシリーズをもう一度ながめてみたいとも思った。




yy



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