2013年2月9日土曜日

2/9 1万時間に寄せて〜生きること〜

こんばんは、山野靖博です。
昨日の甲府城西高校音楽科発表会、無事に終わりました。
生徒たちの合唱はとてもエネルギッシュでさわやかさに溢れ、
また独唱をした生徒たちの真摯な目つきと姿勢は見るものを魅了しました。
僕は、今回は歌わずに、音楽1選択者による合唱と合唱同好会の演奏の
2曲の指揮を振らせていただきました。
新たな体験で、楽しい時間を過ごせました。
ピアニストのセバこと林くんも、伴奏を何曲も抱え、その上ソロもという大活躍。
高校生は目を輝かせて、彼の演奏に見入っていました。


さて。
この、「さて」という言葉、話題を変えるのに便利ですね。
全く違うことを話してもいいし、前の文脈に関係することを続けてもいい。
今夜も例に漏れずその便利な存在を活用させていただきます。

さて。
近頃目にする「1万時間」というキーワード。
Naverまとめでもこんな記事がありました。
“素人とプロの境界線は1万時間だった”
http://matome.naver.jp/odai/2136028774798719601

つまり、某かのプロフェッショナルになるために
その作業に費やす時間の総数が分岐点で、
それがおおよそ1万時間だといえる、とのこと。
ビートルズやモーツァルトも引き合いに出されておりますが。

注意点は、ただ闇雲に時間を費やせばいいのではないということ。
記事上にも「フィードバックを細かくとりながら行うことが重要」との指摘あり。

でもね。待てよ、と思うわけです。

果たして、プロフェッショナルと呼ばれるような歌手の中に
1、一日あたり音楽について考える時間が3時間に達しず
2、自らの歌や生き方についてフィードバックを怠りながら舞台に立つ
という人がどれほどいるのかしらん。

学生風情の僕でさえ、一日のうち、起きている時間の大半は
音楽について考えながら生活しているといっても言い過ぎではありません。
朝目が覚めれば、その日の身体の調子となにより喉の調子を一番に気にします。
何を食べるにも「体重のため」「健康的な身体のため」「美味しさは心の栄養」
これも充実した食生活なしには満足な歌も歌えるはずがないと思うからこそ。
本を読めば、なにか詩やスクリプトを読むときのヒントになるものはないかと考え、
映画を観ても、舞台上で参考になる演技や振る舞いはないかと目を凝らし、
美術だけといわず東京の雑多な街にちりばめられたディスプレイやデザインからも
芸術とはなんだろうという命題を与えられ、
電車の向かいの老人に狡猾な老哲学者の面影を探すのであります。
歩いていれば勉強している曲の文句を口ずさみますし、
恋をするときでさえこの気持ちを覚えておこうと思うのも舞台で使いたいがため。

少し大袈裟かもしれませんが、歌で喰いたいと思っている
僕の周りの友人知人のみなさまは、おおかたこんな生活をされていると
想像に難くありません。

そこにはもちろん、綿密な自己分析と試行錯誤も介在しております。

直接的な歌唱の技術うんぬんでなく、日々の何気ない暮らしの中でも
こうやって歌のことを考えているだもの。
そんな人間のうちの一握りが、一線で活躍する歌い手となっていくのだもの。
プロフェッショナルたちを見渡せば、
1万時間を軽々費やしている人間がすべてというのも当然のこと。

出口からのぞいて「ほらこのトンネルは目的地に繋がってますでしょう」と
したり顔でいうようなものでございます。


僕は小学生のときから
“生まれてきたからには、なんかしらのプロフェッショナルにならなきゃ冥利が悪い”
と、なんとなーく思ってきました。
大層なものにはならなくてもいいが、必ず何かのプロフェッショナルになりたい、と。

今は歌のプロフェッショナルを目指してますが、それこそ
伝票のハンコつきのプロフェッショナルだろうが
愛する彼女については誰にも負けないプロフェッショナルだろうが
なんでもいいのです。
けれど、必ずやプロフェッショナルにならねばと思っている節がある。

僕の最大の目標は「生きることのプロフェッショナルになる」ことです。
「山野靖博のプロフェッショナルになる」と言い換えてもいい。
だから、生きてるかぎりが勉強時間です。1万時間なんて生ちょろい。
その輪の中に、歌があり、食があり、ファッションがあり、愛がある。
これが僕の理想。

とはいえ、
下手の横好きで生きてます、ってのも洒落てますがね。

yy

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