2013年4月6日土曜日

4/6 映画について


映画について書く。


僕は山梨県の甲府市という町に生まれて、この国に於いてはおそらくごくごく一般的な部類に入る経済状況の家庭で育った。びっくりするような贅沢は出来ないけれど、特に不自由な思いはしたことはなかったし、それは僕の親が一生懸命に働いてくれていたからだと今思えば理解が出来る。
僕は外で遊ぶことよりもどちらかと言えば家にいることが好きで、図書館で借りた本を読んだり、テレビゲームをしたり、ひたすらテレビ番組を見たり、パソコンを触ったりして中学ぐらいまでの余暇時間を過ごした。もちろん友達の家へ呼ばれていったり、みんなでサッカーをしたりもたまにはしたけれど、駄菓子屋やゲームセンターは僕の興味をほとんど誘わなかったし、みんなが持っている最新のゲームを僕は特に面白いと思わなかったから、学年が進み中学生になると、自然と家で過ごす時間が多くなった。

高校の頃は吹奏楽や音大進学の勉強に打ち込んでいて、今度はほとんど家にはいなかったのだけれど、その反動か大学に入ってからはずいぶんとひとりで過ごす時間が長かったように思う。何をしているかと言えば、料理をしているか、本を読んでいるか、映画を観ているかだった。

映画の優れている点は、古き良きモノにそれほど苦労をせずに触れることが出来るというところにあると思うし、それは料理や本にも共通している。あるいは音楽も同じかもしれない。音楽と本、料理と映画がそれぞれ同じくらいの歴史的スケールを持っている。
ダンテもゲーテも読もうと思えば簡単に読めるし、エスコフィエのレシピをなぞってみることも可能だ。そして、“ジャズシンガー”だって“戦艦ポチョムキン”だって自分のDVDコレクションに加えることができる。僕はどちらかといえば古いものに惹かれることの方が多くて、今の部屋の家具だって気づけば半数はアンティークだったし、次に趣味のひとつに加えるなら骨董がいいなと思っている。香炉や香合だけを集めたい。そこには限定された用法に合わせて発達した形式美がある。そしてそれは、茶道具よりも人間のエゴに捏ねくりまわされていない。

文学も料理も映画も、人間による試行錯誤の蓄積だ。そんなこといったら建築だって天文学だってそうだが、パルテノン神殿を手のひらにのせて眺めることは難しいだろうし、庭の樫の樹に木星を繋いで飼うことだってできないので、とりあえず僕は本と料理と映画に落ち着いている。どうしてこのリストの中に絵画がはいらないのだろうという疑問もあるが、それが性分なのだとしか言いようがない。絵は嫌いじゃないがどうにもそこまで強く惹かれることはない。美術ならどちらかといえばインスタレーションや彫刻の方が好きだ。器も絵付けより青磁や白磁の方が好きなのも同じ理由だと思う。詩よりも文学や評論や哲学が好きだし、菓子よりも料理が好きだし、写真よりも映画が好き。我ながらここにはなにか一貫性を感じる。コーヒーよりもお酒が好きだし、悩むよりも歌うことの方が好きだし、犬より猫の方が好きだ。そういうことだ。


僕は映画の見方を決めていて、どんな映画であっても見始めた瞬間に注目するポイントを1点だけに絞ることにしている。それは、音楽かもしれないし、構図かもしれないし、スクリプトかもしれないし、演技かもしれないし、はたまた作品中に登場する花瓶の数をかぞえることかもしれない。なんにしろ、オープニングの数秒で、あるいはパッケージの印象で、はたまなその日の気分で、注目するポイントを決める。あとはただそれに注意して2時間を過ごせばいい。この見方の優れた点は、どんなつまらない作品にも興味深いところを見つけることができること。そして、同じ映画を何度見ても全く飽きることがないということだ。だから、単純に理論の話をすると、500の視点を持っていれば10本のコレクションで一生映画には不自由しないことになる。

こういう映画の見方を他人が面白いと思うかどうかは問題でない。否定的な感想を持つ人もいるだろうし、そうでないにしても半ば呆れたような目をするかもしれない。でも僕にはこれでいいのだ。僕なりに満足している。どうしてこういう見方をするようになったのかはわからないけれど、それはもしかしたら僕も映画監督になりたいと心の何処かで夢見ているからかもしれない。

映画が好きなら、自分で映画を撮ってみたいと誰しもが思うだろう。映画監督になるためには、たくさん映画を観たらいい、と答えたのは誰だったか忘れたけれど、たくさん映画をみたところで映画監督になれないのはわかりきっている。だって、僕らは一本の映画にどうにかして200の視点を動員しようと頑張るのに、彼らときたらひとつのカットを撮るのに100のアイディアを用意するような人たちの集まりだから。あるいはそれは言い過ぎかもしれない、僕が映画監督という職業を神格化しているのかもしれない。でも、ほとんどは大袈裟じゃないはず。

僕は映画を自分の部屋で観るのが好きだ。映画館で観るよりももしかしたら好きかもしれない。映画館というのはある種のフィルターで、真空管の立派なオーディオセットでレコードを聴くのと同じだ。そこには増幅されたオーディオセットバイアスがかかった音楽が存在するのであり、それはひとつのアトラクションとして機能している。僕は音楽をごく個人的に聴きたいだけなので、音質にはそれほどこだわらない。ただソリッドな音がしていてくれればいい。アーティストや演奏者の構築した音の重なりを感じられればそれでいい。僕の生活の内側から、他人の創意工夫について夢想するのが好きなのだ。映画も同じだ。ごく個人的な趣味だから、大層な上映施設はいらない。普通のテレビと普通のデッキがあればいい。DVDだろうがブルーレイだろうが気にしない。VHSだっていい。僕のテリトリーのなかで、俳優や監督や編集さんと向かい合いたいのだ。3Dもサラウンドも必要ない。映画館という空間に於いての主役は、やはりどこまでいっても映画館なのだ。

今の時代に生まれてよかったと思う。自宅で数多の映画を楽しめるからだ。データでもディスクでも。わざわざ巨大なスクリーンの前に見知らぬ誰かと並んで座って、座席を後ろから蹴飛ばされるのに煩わされたり、ポップコーンの塩気に集中力を妨げられたりしなければ映画にありつけないってわけではない。好きな時に好きなように映画に触れられる。途中でトイレに立ちたければ、ボタンひとつで俳優は身じろぎもせず同じ格好のまま待っていてくれる。

気分転換として、その日の最大イベントとして、読書のBGMとして、僕は映画と付き合うことができる。昨日食らいつくように観た映画を、今日はぼんやりと眺めることだってできる。飽きたら途中で止めればいいし、気が向けばまた見始めればいい。1年後でも、3年後でも。気楽なものだ。

僕が初めて観た映画の作品群で記憶に残っているのは、
チャップリンの独裁者、ライムライト。ネバーエンディングストーリー。雨に唄えば。
どれも小学校にあがる前か、あるいは小学生の低学年の頃みたものだ。
ネバーエンディングストーリーに出会ったから僕は本を読むことが好きになったし(おそらく)、ステージにのることを生業にしたいと思う源流は雨に唄えばのジーン・ケリーだと思う。そして、独裁者の演説のシーンは、幼いながらも非常に印象に残ったらしく、ひとりの長台詞を誰にも見つからないように真似してみた記憶がある。

それ以来決して少なくはない映画に触れ、愛すべき作品は増え、惹かれる俳優は数えきれず、僕の美意識の大部分に映画的価値判断が影響を与えている。多く映画について語れるほどの知識はないが、どのように僕が僕なりの愛をもって映画という存在を人生のパートナーとして捉えているかについてならばいくらでも書ける。お金はあるけれど映画は観れない生活より、貧しくてもいつも映画の傍にいられる生活の方がいいに決まっている。僕は映画については尋常じゃないほどに偏食だけれど、イチローだって毎朝カレーを食べていたのだ。

yy

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