2013年4月3日水曜日

4/3 歳時記

こんにちは、山野靖博です。
東京は春の嵐と盛んに報道されています。
まさしく風は強いし雨は降るし、昨日今日とで花散しです。
歩き辛いし過ごしにくいこと甚だですが、
それでも路面に出来た水たまりに浮かぶ小さな花筏の様子には
どこか心をくすぐられるようなところがあります。


桜と言えば染井吉野に始まり染井吉野に終わる
といったような向きがありますが、僕が一番好きなのは八重です。
通った小学校の校庭の端、校舎から一番離れたところにブランコが2機あって、
その傍らに悠々と枝を広げて立つ八重桜があったことを覚えています。
なんともしっとりとした咲姿をしたぼんぼりのような花弁の集まりを
いつも眺めていたような気がします。
八重の桜のいいところは、花と葉が一緒につくというところです。
とはいってもどうやらすべてがそうであるわけじゃないらしく、
八重にもいろいろな品種があるようですね。
なんにしろ、染井吉野の群生が散り、世間の目がお花見からそれた頃に
ひっそりと八重の盛りを楽しむというのが、僕の花見の好みです。


僕の性格にはどこかひねくれたところがあって、
だから大手を振ってやれ染井吉野が素晴らしい、とは言いづらい気持ちがあるようで。
これは所謂、世で話題のものには反発したくなるという
どうにも扱いづらく厄介な性質に依るのだと思っています。
桜は美しいし大好きだけれど、でも、と言いたくなるのは、
他にも美しく可憐で心を彩ってくれる花はそこら中に咲いているじゃないか、と思うからです。

元来、樹になる花が好きらしく、その筆頭は白木蓮ですが、
その両手を合わせたような蕾の清らかさに負けず劣らず、
まだ寒さの残る空を突き刺すように白い花を咲散らす辛夷にも思い入れがあります。
椿は一重も八重も赤も白も素敵で、その理由はごくごく濃い緑をした
その葉の色とのコントラストによるのではないかといつも思います。
落ちた椿、同心円に広がる紅のうら寂しさ。

心がときめくのは雪柳。パチパチとした細かな白い花。
胸に迫るような動きを、いつも感じます。
若い女性に最も似合う花なのではないかなと、密かに思っています。
小さな花だと、レンギョウの黄色。馬酔木のミルク色。はじけたような房アカシア。
名前とはちぐはぐに地面に顔を向けて春先まで健気に咲いているクリスマスローズ。
色気より食い気の菜の花は、春になると待ちわびる日常食ですが、
群れて咲く菜の花たちから漂うなんともいえないむせるような香りには、
感じるたびに元気をもらうような気がします。


なんにしても、花の便りを待ちわびるということに、心が躍ります。
だから年に一度の桜だけでは物足りない。
寒さの頃から寒椿を横目に沈丁花の蕾の膨らみを毎日毎日気にかけて、
それが咲けばそら春だ。次は木蓮か辛夷か。
桜なら寒緋から始まって大島桜には来年の桜餅を楽しみにして、八重まで。
梅雨の足音の前には桐の花を思うし、
梅雨になったらなったで立葵の咲く様子を毎日眺めます。
そうして日々季節の過ぎることを教えてもらい、
時間の過ぎることの楽しさを覚えていくのです。

今年見た桜の手触りと、去年見た桜の手触りとははっきり違うし、
果たして10年後の桜を僕はどう見るのだろうと思いを馳せるのです。


詳しいわけではないけれど、この程度に花が好きなのは
山梨という育った環境もあるでしょうし、僕の母が植物好きということもあるでしょう。
小振りなのが皐月だよ、躑躅とは葉っぱが違うでしょ
これはきっと三つ又、今日は芝桜が咲いたね、庭梅のみをこのカゴにとってきてくれる
幼心ではああそんなものかと聞き流しながら、
今はこうして花や草木の変化を楽しんでいるのですから
教育とは面白いものだなあと自分で思います。
撒いた種から芽が出るのに、それこそ10年はざらにかかっているのですから。


春の花を楽しみながら、夏の花に心は向きます。
百日紅、夾竹桃、山梔子
どうにも、やっぱり樹になるものが気になるようです。

yy

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