2014年5月1日木曜日

自分はフリーランサーだと気付くところから全てがはじまる、という話






高校に上がるまで、ろくすっぽ音楽の専門教育を受けていなかったような少年が
なまじ現役で東京藝術大学に合格してしまったため、
僕は大学生活の大半を「自分は才能あふれる芸術家なんだ」という自己認識とともに過ごしました。


演奏家や表現者にとって、「自分は芸術家である」という自負は必要だとは思いますが、
そこに傲慢さや驕りが生じるとどうもよくない向きがあります。
なんでもそうですよね、どんな仕事でも傲慢さや驕りは誠実さの最たる敵。
あるいは失敗の道への友。



音楽という時間芸術の尊さやそれを日本という国でやる意義は大切にしながらも、
それでもある時から「私は芸術家である」という看板を外してみました。
そうするとそこに残るのはなにか。
自分の頭脳と身体と技術のみです。
僕は、発想を変えてみました。
「自分は世間に保護されるべきひ弱で尊い芸術家」なのではなく、
「世間に自らを価値あるサービスとして売り出すビジネスマン」なのだと。


僕らの学んできた演奏技術や音楽についてのあらゆるバックボーン、
舞台人を目指す上で身に付けてきた振る舞いや日々への視点。
あるいは普通の人とは違う雰囲気や思考の特殊性。
そういったありとあらゆるものを「商品」として人に売り
事業を展開していく起業家、それこそ職業演奏家です。

その「商品」を勝手に売ってくれる会社や事務所・個人にめぐり逢った方は幸せですが、
日本において多くの演奏家は、自分で自分の管理をし、営業をかけ、販売し、資金回収します。
フリーランサーそのものです。ちょっと前に流行ってたノマドもびっくりです。
日本各地あるいは世界各地を転々としながら生きていくのですから。



芸術家であるというのは社会の文化的な面との関わりのなかで生まれる肩書きです。
そして、フリーランサーであるというのは社会の経済的な面との関わりのなかで生まれる肩書きです。

僕らは、どちらも持っているべきです。
どちらかひとつにこだわると、バランスを崩します。
僕はまず「芸術家である」という自負が大きすぎて、フリーランサーであるというあり方に気付かなかった。
芸術家の看板をまず下ろしてみて初めて気付いたのです。
「自分を商品として、その品質を上げ、宣伝し、売り、資金回収するこの営みは
 まさにフリーランスの働き方そのものじゃないか」って。



世界の音楽大学に先駆けて、バークリー音楽大学では学生にビジネスの考え方を教える
起業センターが設立されました。


バークリー音楽大学の起業教育
http://p.tl/ccQ4


演奏家を庇護するシステムが育っていない日本においても、
この姿勢や考え方は必要なのではないかなと僕は考えています。

自分はただ芸術家であるだけではなく、フリーランサーでもあるのだ
という視点を持つことで救われるようなポイントもあると思います。
つまり、社会との関わり方に選択肢が生まれるのです。

芸術家は孤独な存在である、という強烈な自己暗示。
これは、社会と芸術家の接点がひとつしかないから生じる現象ではないでしょうか。

ただのビジネスでもない、ただの自己鍛錬でもない、
着地点をふたつ以上持っている個人としてのあり方。
そういう演奏家でいるという選択肢もあるのではないでしょうか。


芸術家であるという自負は、舞台の上で存分に発揮しましょう。
けれど、普段の生活を「いかにも芸術家然」と過ごす必要はないように思います。
もしも普段からそう振る舞いたい気持ちがあるのなら、
そのうらには(もしかしたら)「芸術家である自分」に対する不安が潜んでいるのかもしれません。
僕がそうだったように。




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